ELO Part II(1989年 - 2000年)
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「エレクトリック・ライト・オーケストラ」の記事における「ELO Part II(1989年 - 2000年)」の解説
1988年、ベヴァンはリンに「ELOのアルバムをレコーディングしたい」と打診。しかし、リンが参加を拒否ししたため、ベヴァンはリンなしでのバンドの活動を行なう意志を示した。これに対して、名称権利を有するリンは難色を示す。打開策として「Part II」を追加した「Electric Light Orchestra Part II」という名で合意した。活動開始初期にジョン・ペインがメンバーとして採用されたが、正式加入前に離脱して、1991年にエイジアに参加。プロデューサーも交代して再度仕切り直し、ファースト・アルバム『銀河の探索者』がリリースされたのは、翌1990年であった。 ELO全盛期の旧メンバーであるミック・カミンスキー、セカンド・アルバム『モーメント・オブ・トゥルース』からはルイス・クラークやケリー・グロウカットも参加するなど、オーケストラ・サウンドとロックバンドを合わせた、1970年代のELOサウンドの再現を目ざした。しかしリン不在のELOは如何ともしがたく、アルバム・シングル共に新作が全米・全英でチャートインを記録する事はなかった。ライブでは往年のヒット曲を演奏し、オーストラリアやロシアで生オーケストラと共演したライブ・アルバムを発表している。 ELO Part II名義での最初のツアーは、コンスタンチン・クリメッツが指揮を務める80人編成のモスクワ交響楽団(英語版)を迎えて行なわれた。 1999年1月にベイツが脱退し、パルテノン・ハクスリーが代わりにボーカルとギターを務めることとなった。11月に最後のライブを開催。 2000年初頭にバンド解散を発表。
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