蔡萬植とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 蔡萬植の意味・解説 

蔡萬植

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/04 23:47 UTC 版)

蔡萬植
各種表記
ハングル 채만식
漢字 蔡萬植
発音: チェ・マンシク
日本語読み: さいまんしょく
テンプレートを表示

蔡萬植(チェ・マンシク、1902年7月21日 - 1950年6月11日)は朝鮮小説家は采翁、白菱。本貫は平康蔡氏。風刺小説家と評される。自由主義理想主義を求めた蔡の作品は韓国文学に輝く大きな星であり、代表作『濁流』は1930年代の社会相を集約した傑作である。

経歴

1902年全羅北道沃溝郡(現在の群山市)臨陂面邑内里に5人兄弟の末子として生まれる。父、蔡圭燮は村の豪農。蔡家は代々の豪農であったが、次兄の蔡俊植が金鉱に手をつけて家が傾いていったという。京城中央高等学校を卒業した後、渡日し、早稲田大学英文科で学んだ。留学時代はサッカーの選手として活動もしていた。1924年、『朝鮮文壇』12月号に短編「新しい途へ」が推薦されて文壇にデビューする。その後、『東光』『彗星』『新東亜朝鮮語版』などに作品を発表していく。蔡は片意地なところがあり、同僚から距離を置かれ1930年代初め頃は孤独な状態にあった。その頃、KAPF朝鮮プロレタリア芸術家同盟)の同伴作家として執筆をしていたが、社会主義思想体系を持ち合わせていた、というよりは、人情的な作家であった。

1936年、それまで勤めていた朝鮮日報を辞める。一度、開城金鉱をやっていた次兄のところに身を寄せるが、再び京城に戻り、1939年に『濁流』を書き、『朝鮮日報』に連載した。風刺と冷笑、憎まれ口と挫折感が敷き詰められ、陰険な落とし穴と詐欺と殺人が入りくみ絡みあう『濁流』は1930年代の社会相を集約した傑作である。

蔡の鋭い風刺は『濁流』をピークにして、日本帝国主義に屈したかのように見える。論文「文学と全体主義」(1941年)、随筆「鴻大なる聖恩」(1943年)、視察記『間島行』(1943年)、などと、『毎日申報』(1944年10月~1945年5月)に連載した長編「女人戦記」は誰の眼にも日帝の「聖戦新体制」に同調したものだった。この『女人戦記』を最後に、蔡は故郷の沃溝に戻り、一時、筆を絶った。麻雀に打ち込み鬱憤を晴らしながら暮らしているうちに1945年8月15日の開放を迎えた。

次兄は金鉱事業に失敗し、蔡は肺結核を患っていた。そんな中で再び創作への意欲が沸き起こり、りんごの空箱を机代わりにして執筆活動を再開する。この頃書かれた『民族の罪人』は対日協力に対する自己批判の小説として知られている。そうしてその印税で家を買うまでになった。しかし、解放直後の物不足のときに、肺結核の薬代に莫大な費用がかかり、さらに4番目の息子、永焄がパラチフスにかかる。息子の看病で蔡自身の病状までも悪化し、治療費を捻出するため家を売った。

1950年6月11日、自宅にて息を引き取る。死後は蔡の希望通り、棺に花を敷き詰め、火葬された。遺骸は全羅北道沃溝郡臨陂面鷲山里にある墓地に埋葬された。1959年、蔡の親友であった李無影が蔡萬植の墓前に碑文を建てた。

死後は親日反民族行為者に認定された[1]

年譜

  • 1902年7月21日、全羅北道沃溝郡臨陂面邑内里に生まれる。
  • 1918年、臨陂普通学校を卒業。
  • 1918年、京城中央高等学校に入学。
  • 1920年、家同士の取り決めで咸羅殷家の令嬢と結婚。
  • 1922年、中央高等学校を卒業。
  • 1922年、渡日。早稲田大学英文科に入学。
  • 1923年、関東大震災の影響で帰国。東亜日報社に入社。
  • 1924年、長男、武烈が生まれる。
  • 1926年、朝鮮日報社学芸部記者。開闢社記者。
  • 1927年、次男、桂烈が生まれる。
  • 1932年、「KAPF」の同伴作家となる。
  • 1936年、朝鮮日報社を退職。創作生活に入る。
  • 1937年、京城の広壮里に引っ越す。
  • 1942年、三男、炳勲が生まれる。
  • 1944年、長女、永実が生まれる。
  • 1945年5月、故郷の沃溝に戻る。父が死亡。長男が病死。
  • 1946年、益山郡裡里邑(現在の益山市)古懸洞の次兄宅に身を寄せる。
  • 1947年、四男、永焄が生まれる。
  • 1947年、母が死亡。
  • 1947年、珠現洞四番地に家を買い、引っ越す。
  • 1949年、治療費のため、家を売る。
  • 1950年6月11日、自宅にて息を引き取る。

作品一覧

短篇

  • 1925年、세길로(『朝鮮文壇』)
  • 1928年、生命의 遊戯
  • 1931年、사라지는 그림자(『朝鮮之光』)
  • 1932年、人形의 집을 나온 연우
  • 1932年、富村
  • 1934年、레디메이드 인생
  • 1935年、冷凍魚
  • 1935年、敗北者의 무덤
  • 1936年、심봉사(『文章』、検閲で全文削除)
  • 1936年、쑤꾹새(『人文評論』)
  • 1937年、예수나 믿었더면
  • 1937年、祭餐날
  • 1937年、童話
  • 1937年、이런 男妹
  • 1937年、
  • 1938年、龍洞宅
  • 1938年、정자나무 있는 揷話
  • 1938年、痴叔
  • 1939年、敗北者의 무덤
  • 1939年、模索
  • 1939年、病이 났거든
  • 1940年、
  • 1940年、四號 一段
  • 1940年、近日
  • 1941年、邂逅
  • 1941年、鐘路의 住民
  • 1941年、고약한 사돈
  • 1942年、揷話
  • 1944年、妻子
  • 1946年、歷程
  • 1946年、논 이야기
  • 1948年、落照
  • 1948年、도야지
  • 1948年、아시아의 運命
  • 1948年、歷史의 第一話
  • 1949年、늙은 極東選手

中・長篇

  • 1933年、人形의 집을 나와서(『朝鮮日報』連載)
  • 1936年、女子의 一生
  • 1937年、濁流(『朝鮮日報』連載)
  • 1938年、天下太平春 (『朝光』、後に「太平天下」に改題)
  • 1939年、金의 情熱
  • 1940年、冷凍魚
  • 1940年、젊은 날의 한 句節
  • 1942年、아름다운 새벽
  • 1943年、女人戰記(『毎日申報』連載)
  • 1943年、배비장
  • 1946年、民族의 罪人
  • 1946年、許生傳
  • 1948年、玉娘祠
  • 1949年、小年은 자란다

戯曲

  • 1927年、가죽버전
  • 1931年、貨物自動車(『朝光』)
  • 1940年、螳螂의 傳說
  • 1944年、심봉사
  • 1944年、興夫傳
  • 1944年、대낮의 주막집

随筆

  • 1940年、小說을 잘 씁시다
  • 1949年、밤 손님

年代未詳作品

初期作品と推測されるもの

  • 과도기(中篇)
  • 黃金怨(短篇)

1930年代と推測されるもの

  • 明日(中篇)
  • 이런 虛地(短篇)
  • 不傳딱지(短篇)
  • 無藏三冬(オリジナルシナリオ)
  • 生命(短篇)
  • 貧…第一章 第二課(短篇)
  • 흘러간 故鄕(短篇)
  • 암소를 팔아서(短篇)

1940年代と推測されるもの

  • 巡公있는 日曜日(短篇)
  • 興甫氏(短篇)
  • 善良하고 싶던 날(短篇)
  • 車中에서(短篇)
  • 上京折半記(短篇)
  • 덕원이 선생(短篇)
  • 강선달(短篇)

解放後と推測されるもの

  • 이상한 선생님(童話)
  • 왕치와 소새와 개미와(童話)
  • 實의 功(短篇)
  • 文學을 나처럼 하여서야(随筆)
  • 대낮의 주막집(コント)
  • 성찬(コント)
  • 한글 校正-誤植-사투리(遺稿)
  • (長篇、遺稿)

日本語で読める作品

  • 三枝壽勝訳『韓国文学名作選 濁流』講談社、1999年

脚注

  1. ^ 06년 12월6일 이완용 등 친일반민족행위자 106명 명단 확정 공개” (朝鮮語). 한국일보 (2021年12月6日). 2022年7月25日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蔡萬植」の関連用語

蔡萬植のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蔡萬植のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの蔡萬植 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS