2人目の皇帝・オトー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 00:21 UTC 版)
「ローマ内戦 (68年-70年)」の記事における「2人目の皇帝・オトー」の解説
オトーはこの年36歳と若く、またルシタニア総督時代は善政で名を知られており、兵士からも人気があった。また、ネロの側近でローマ市民の憎悪の対象であったガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスを自殺させて、ローマ市民の歓心を買った。だがすでに蜂起したウィテッリウスの軍勢は止まらず、オトー就任後もゲルマニア軍団(第1軍団ゲルマニカ、第21軍団ラパクス)を率いてローマへの行軍を続けていた。幸いにしてドナウ軍団が積極的にオトーを支持したため、彼らを急遽呼び戻し迎撃させた。両軍はクレモナ近郊で激しい戦闘を繰り広げた(第1次ベドリアクムの戦い)。オトーの軍(第1軍団アディウトリクス、第13軍団ゲミナ、第14軍団ゲミナの一部、プラエトリアニ、そして剣闘士で急遽編成された軍団もこれに加わった)は緒戦に敗北するが、まだ兵力に余裕があり、十分に挽回の可能性があった。だがそれにも関わらず、敗戦の報を聞いたオトーはあっさりと自殺した。わずか3ヶ月間の帝位であった。 市民間の流血を避けるためきわめて早い段階で自死したオトーは、それまでの性格態度とも比べられ、多くの市民の感嘆を得た。後にタキトゥスは、その死に様についてカエサルよりもマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)よりも偉大だと述べている[要出典]。
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