1stアルバム発表~ニューヨークへの移転
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「シャイ・ハルード」の記事における「1stアルバム発表~ニューヨークへの移転」の解説
同年、チャドはニュー・ファウンド・グローリーとしての活動に傾きがちになり、バンドに早くも暗雲が立ち込み始める。 そんな状況の下、バンドは8月から次の作品のレコーディングに取り掛かり始める。 9月にレコーディングが終了し、11月に1stフルアルバム『Hearts Once Nourished with Hope and Compassion』をリリースする。 翌年1998年にはシャドウズ・フォールやカンニバル・コープスらと共に全米を廻るツアーを行った。 さらに11月にはニューヨークのインディシジョンと共にスプリット・アルバム『The Fall of Every Man』をリリース。 しかし、バンドの名声が上がるにつれて何人かのメンバーがモチベーションの低下を訴え始める。 1998年、オリヴァー・チャッポイはバンドを去る決意をする。翌年の1999年1月に後任としてマシュー・フレッチャーが加入。 彼は1997年にシャイ・ハルードのライブを見に行っていた。 スティーヴ・クライサスが家庭の都合でバンドを脱退すると、立て続けにチャド・ギルバートもニュー・ファウンド・グローリーでの活動に専念するため脱退。 怪しい雲行きのままバンドはヨーロッパツアーを敢行、新たなボーカリストをガート・ヴァン・デル・ヴェルデが担当した。 バンドは帰国後も活動を継続する意向でいたが、そんな中デイヴ・シルバーはすでに帰国に合わせてバンドを去る準備をしていた。 2000年1月、マットの友人であるジャレッド・アレンが後任のベーシストとして参加することになった。 その後、アナザー・ヴィクティムとのスプリット『A Whole New Level of Sickness』およびメタリカのトリビュート『Crush 'Em All Vol. 1』のレコーディングを開始、どちらも同年3月にリリースされた。 レコーディングにはスパイキー・ゴールドバックとバンドを離れていたスティーヴが参加している。 その後バンドは2001年に活動の拠点をニューヨーク、ポキプシーに移している。
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