1980年代 ラングーン事件と第2次南北対話
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「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事における「1980年代 ラングーン事件と第2次南北対話」の解説
「ラングーン事件」および「大韓航空機爆破事件」も参照 北朝鮮は1980年10月の朝鮮労働党第6次大会で「高麗民主連邦共和国」構想を発表し、韓国の現政権の打倒と人民の解放による南北統一というビジョンを明らかにした。折しも韓国では全斗煥政権に対する学生民主運動家の闘争が激化しており(光州事件)、これを南朝鮮解放の好機と見たためである。全斗煥政権との対決を強める北朝鮮は1983年、全斗煥大統領のアジア諸国歴訪に合わせてビルマにてラングーン事件を起こし、韓国政府の要人複数を暗殺する。しかし、北朝鮮政府の予期に反してこの事件は国際的非難を浴びることとなった。 窮地に立たされた北朝鮮は1984年、中国の仲介によって第2次南北対話を開始し、韓国に対する外交姿勢を対決から対話へと急速に切り替えた。この第2次南北対話では、離散家族の相互訪問という一定の人道的成果がもたらされた。 しかし、1987年に韓国で再び全斗煥政権と対決する民主化闘争が激化すると、勢いづいた北朝鮮は大韓航空機爆破事件を起こし、再びテロ国家として国際的非難を浴びることとなる。翌1988年に韓国は単独でソウルオリンピックを成功させ、経済発展を遂げ国際社会における地位を確立した韓国と、国際社会から孤立する北朝鮮との彼我の差は決定的なものとなった。
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