1977年ソビエト連邦憲法
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| ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (基本法) | |
|---|---|
| Конституция (Основной Закон) Союза Советских Социалистических Республик | |
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| 施行区域 | |
| 効力 | 廃止 |
| 成立 | 1977年10月7日 |
| 公布 | 1977年10月7日 |
| 施行 | 1977年10月7日 |
| 政体 | 社会主義、連邦制、共和制、大統領制(1990-1991) |
| 権力分立 | 一党独裁(1977-1990) |
| 元首 | 名目上∶ 最高会議幹部会議長(1977-1989) 最高会議議長(1989-1990) 事実上∶ ソビエト連邦共産党書記長(1977-1990) 大統領(1990-1991) |
| 立法 | 最高会議 人民代議員大会 |
| 行政 | 閣僚会議 内閣 |
| 司法 | 最高裁判所 |
| 改正 | 6回 |
| 最終改正 | 1990年12月26日 |
| 廃止 | 1991年12月26日(ソビエト連邦の崩壊) |
| 旧憲法 | |
| 新憲法 | |
| 作成 | ソビエト連邦共産党(事実上) |
| 署名 | レオニード・ブレジネフ(最高会議幹部会議長) |
| ソビエト連邦 |
|---|
| 最高指導者 共産党書記長 |
| レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
| 標章 |
| ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
| 政治 |
| ボリシェヴィキ · メンシェヴィキ ソビエト連邦共産党 ソビエト連邦の憲法· 最高会議 チェーカー · 国家政治保安部 ソ連国家保安委員会 |
| 軍事 |
| 赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦地上軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
| 場所 |
| モスクワ · レニングラード スターリングラード ·クレムリン · 赤の広場 |
| イデオロギー |
| 共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
| 歴史 |
| ロシア革命 ·ロシア内戦 ·大粛清· 独ソ不可侵条約· バルト諸国占領·冬戦争· 独ソ戦 ·冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ ·チェルノブイリ原子力発電所事故·マルタ会談 · 8月クーデター ソビエト連邦の崩壊 |
1977年ソビエト連邦憲法(ロシア語: Конститу́ция (Основно́й Зако́н) Сою́за Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик)は、1977年に制定されたソビエト連邦の憲法。1936年に制定されたソビエト社会主義共和国連邦憲法に置き換わるもので、当時の最高指導者であったレオニード・ブレジネフの名前をとったブレジネフ憲法や、制定年をとった1977年憲法、または先進社会主義憲法などとも呼ばれている。前文にて、「プロレタリア独裁」の段階は終了し、一党独裁国家が「全人民の国家」になったとすることで、ブレジネフ書記長や当時の共産党指導部がソ連について抱いた理想が現実とはほど遠かったにもかかわらず、それを憲法として正式に追認した[1]。
概要
1977年憲法は、レオニード・ブレジネフ時代の1977年10月7日に、第9期ソビエト連邦最高会議第7回特別会議で全会一致で決定され、1936年憲法(いわゆるスターリン憲法)を置き換えた。
1977年憲法は前文で「プロレタリア独裁の目的は既に達成され、ソビエト国家は全人民の国家となった」と宣言した。また従来の憲法と比較して、社会に対する憲法上の規制が拡大された。
第1章でソビエト連邦共産党の指導的役割を定義し、国や政府に対する管理の原則を確立した。
第1条はソビエト連邦を「社会主義国家」と定義するが、過去の憲法では「労働者、農民、知識人、および国の全ての民族の勤労者の意思と利益を代表する、全ての人民の社会主義国家」となっていた箇所が、1977年憲法では、政府は既に労働者と農民だけのものではない、との内容となった。また以降の章では経済的管理や文化的関係も記載された。
1977年憲法は1936年憲法に取って代わり、ソ連の祝日であるソ連憲法記念日は12月5日から10月7日に変更された[2][3]。
1977年憲法は長く詳細で、1936年憲法より28以上も条項が増えた。中央の連邦政府と各共和国政府の間の責任分担が正確に定義された。例えば、共和国の司法権における境界線や行政部門の規制が規定された。しかし、この条項のもとに作成された法令では、各共和国には実際には変化は無く、この憲法は全体としては統治上の権限は中央集権であった。
また過去の全てのソビエト連邦の憲法と同様に、1977年憲法でもソビエト連邦を構成する各共和国に対して、ソビエト連邦から脱退する権利を維持した。この条項は、後のソビエト連邦の崩壊で重要な役割を果たした。
関連項目
脚注
- ^ “ロシアに希望はあるか 「国民投票」閉塞映す”. 日本経済新聞 (2020年7月8日). 2021年10月26日閲覧。
- ^ Unger, Aryeh L. (1981-01-01) (英語). Constitutional Development in the USSR: A Guide to the Soviet Constitutions. Methuen. ISBN 978-0-416-71680-1
- ^ Smorodinskaya, Tatiana; Evans-Romaine, Karen; Goscilo, Helena (2013-10-28) (英語). Encyclopedia of Contemporary Russian Culture. Routledge. ISBN 978-1-136-78785-0
外部リンク
- 1977年ソビエト連邦憲法のページへのリンク