1959年のツール・ド・フランスとは? わかりやすく解説

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1959年のツール・ド・フランス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/23 15:24 UTC 版)

フェデリコ・バーモンテス」の記事における「1959年のツール・ド・フランス」の解説

ともすれば総合優勝よりも山岳王にこだわり見せていたバーモンテスだが、1959年ツールでは総合優勝も果たすことになる。ピレネー超え第14ステージ終えた段階で、バーモンテスは総合首位のヨー・ホーヘンナールに7分4秒差の6位につけていた。ところが翌、第15ステージピュイ・ド・ドームでの個人タイムトライアル制したばかりか、ホーヘンナールとの差を一気に4秒差まで縮め驚異走り見せる。 そして舞台アルプス移した第17ステージにおいて、区間優勝シャルリー・ゴール利してタイム2位に入り、ついにここでマイヨ・ジョーヌ手に入れたガリビエ峠など標高2000m級の山々連なる難所第18ステージにおいても、ジャック・アンクティルゴールらを完璧に押さえ込んでマイヨ死守。アンクティルはこの時点で9分以上の差をつけられ5位、ゴール21分以上の差をつけられ10位と、両者は完全に総合優勝争いから脱落したその後アンクティルは懸命に追い上げ見せるものの3位どまり。バーモンテスが単なるクライマーではないという強さ遺憾なく発揮した大会となったツールでは1963年においても、アンクティルに最後総合3連覇を許すことにはなるものの、3分35秒差の総合2位入った。もっともこの年ツールではピレネー超え最終日となる第16ステージ完璧な走り見せ一時はアンクティル危うしの声まであったという。アンクティルは第19ステージ個人TT漸くバーモンテスを振り切ってそのまま総合3連覇果たした。なお、バーモンテス以外の選手はいずれもアンクティルに10分以上の差をつけられていた。 ちなみに他の主要ステージレースにおける総合優勝並びに同ワンデーレースの優勝記録はなく、まさしく優勝よりも山岳王の称号誇り感じていたといって過言ではない。

※この「1959年のツール・ド・フランス」の解説は、「フェデリコ・バーモンテス」の解説の一部です。
「1959年のツール・ド・フランス」を含む「フェデリコ・バーモンテス」の記事については、「フェデリコ・バーモンテス」の概要を参照ください。

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