1953年 全米ヒット
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「ビル・ヘイリー」の記事における「1953年 全米ヒット」の解説
Apr [Crazy, man, crazy / What' cha gonna do] (Essex 321) June [Fractured / Pat-a-cake] (Essex 327) Aug [Live it up / Farewell, so long, boodbye ](Essex 332) Dec [I'll be true / Ten little indians ](Essex 340) 1954 Mar.20 [Straght jacket / Chattanooga choo choo](Essex 348) 4月「クレイジー・マン・クレイジー(Crazy Man Crazy)」発売。ビル曰く「若者達のダンスの時の掛け声に触発されて書いた」この曲は、1953年5月23日ビルボード誌ホット100の最高12位を記録、最終的に100万枚を売り上げる。この時期からバンドの編成にドラムとサックスが追加されロックンロールサウンドへ向かう。「フラクチャード」(24位)「ライブ・イット・アップ」(25位)とバンドは上り坂にあった。「ストレート・ジャケット」のリリースをもって、エセックスとの契約終了。 移籍~それぞれの思惑デッカ・レコードのA&Rマン、ミルト・ゲイブラーの回想。「ジム・マイヤーズから電話が来た。『ビル・ヘイリーをご存知ですか?』私は答えた。『もちろん。クレージー・マン・クレイジーは覚えているさ』話を聞くとビルのエセックスからの移籍先を探しているらしい。『ぜひ会って話を聞かせてもらいたい』しばらくするとビルとマイヤーズの二人がやってきた。現在エセックスではミラーが弦楽器のオーケストラに力を入れていてビルは冷遇されている事、マイヤーズは自身が版権を持つ曲をビルに提供しても録音が出来ない事などを語った。私はその『ロック・アラウンド・ザ・クロック』という曲をデッカでの最初のセッションで録音する事を含めた条件で彼らと大筋の合意をした。」デッカは6か月前にアラディンへ移籍したルイ・ジョーダンのフォローを必要としていた。
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