鳴梁海戦とは? わかりやすく解説

鳴梁海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/15 07:40 UTC 版)

鳴梁海戦
戦争慶長の役
年月日慶長2年9月16日1597年10月26日
場所:朝鮮国全羅道鳴梁渡
結果:朝鮮水軍の退却
交戦勢力
日本水軍 朝鮮水軍朝鮮語版
指導者・指揮官
藤堂高虎
加藤嘉明
脇坂安治
来島通総 

軍目付として毛利高政、当時の名乗りは友重

李舜臣
金億秋
戦力
先鋒(中型船数十隻)
本隊133隻

後方200隻以上
総兵数約7200人[1][2]

板屋船13隻
諜報線32隻小舟百隻
損害
戦死(先鋒部隊)来島通総、菅正陰他数十人 来島出雲守殿討死にて御座候其外舟手の被召連候家老之者共も過半手負討死仕候</ref> 不明(2人戦死、水死者7名以上)順天監牧官 金卓 死亡
文禄・慶長の役

鳴梁海戦(めいりょうかいせん)は、鳴梁渡海戦ともいい、豊臣秀吉慶長の役により慶長二年(1597年9月16日和暦/以下同)に陸に呼応して西進した日本水軍と朝鮮水軍朝鮮語版英語版との間に起こった海戦。李舜臣の指揮する朝鮮水軍が日本水軍の先鋒の来島勢に大きな損害を与えた。しかし残存兵力の少ない朝鮮水軍は兵力温存を図り、唐笥島、於外島、七山島、法聖浦、蝟島を経由し北方の古群山島付近まで後退した。朝鮮水軍の撤退後、日本水軍は六・七里ほど追撃したが日が暮れまた水路不案内によりそれ以上は攻撃しなかった。韓国では鳴梁大捷と呼ばれ、「李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦い」と認識されている。李舜臣の乱中日記[要文献特定詳細情報]には日本軍が攻めてこなくなったので安全策をはかり西上したとあるが、毛利高棟文書[要文献特定詳細情報]には朝鮮軍が「逃退」したとあり、久留島家文書[要文献特定詳細情報]には日本軍が朝鮮軍を「即時追散」したとある。いずれにせよ李舜臣は全羅右水営を放棄せざるをえず、一ヵ月後に帰還した際にはその周囲の荒れようを嘆いている。

背景

文禄の役後、日本との間で続けられた和平交渉は決裂し再征が決定された。今回の作戦計画は、「全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道にも進撃すべきこと」、「これを達成した後は、慶尚道に撤収し仕置きの城(倭城)を築城して、在番以外の諸将は帰国すること」であった[3][4]

朝鮮水軍は、李舜臣の指揮の下、間山島海戦で日本水軍を壊滅させるなど戦果を収めていたが、讒言により李舜臣が解任された。代わって元均が指揮を執ったが、巨済島海戦(漆川梁海戦)で大敗し残存兵力は大船十二、三隻になっていた。

日本軍の主力は5月から6月ごろに渡海し、7月15日に漆川梁海戦で朝鮮水軍を大破すると、陸上でも左軍と右軍の二手に編成され全羅道に向かって進撃し、左軍は南原城(南原城の戦い)を8月15日に、右軍は黄石山城を8月16日に陥落させた(黄石山城の戦い)。続いて両軍が併進して8月19日全羅道の主府全州を占領すると、左右の諸将は一堂に会して会議を行い今後の作戦方針を定めた。その内容は、三手に分けた全軍をもって忠清道に進攻した後、加藤清正黒田長政毛利秀元(35,000人)は直ちに慶尚道に入って加藤・黒田の居城の築城を開始すること、その他の陸軍(78,700人)は全羅道に戻って未掃討の地を北から南へと掃討してゆくこと、これに呼応して水軍(7,000余)は全羅道沿岸を進撃する方針が決定した[5]

日本軍による全羅道掃討作戦は順調に推移し、9月中旬には最終段階に入って残るは全羅道南部のみとなっていた。当地に存在する明・朝鮮側の戦力は右水営に拠る朝鮮水軍わずか十二、三隻に過ぎなかった。朝鮮では漆川梁海戦で水軍が壊滅的打撃を受けた後、再び李舜臣を三道水軍統制使に任命していたが、戦力的劣勢は明らかであった。この状況で日本軍は陸軍が全羅道南部で南進を続け、水軍は沿海を西進し、水陸から鳴梁海峡方面に迫っていた。

戦闘の経過

板屋船(朝鮮水軍の主力艦)

慶長2年(1597年)8月下旬、左軍に属した船手衆の藤堂高虎(兵数2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、菅達長(200)と目付毛利高政は全州占領後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進し、先鋒は9月7日に於蘭浦沖に達する。碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍はこれに対するため出撃したが、日本水軍先鋒が戦わずに立ち去ったため、追撃することができないままに碧波津に帰った。そもそも朝鮮水軍では大船が十二、三隻[6]があるだけであり、戦力的に劣勢だったため、後続の日本水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、15日さらに右水営沖に移った。鳴梁渡は珍島と花源半島との間にある海峡であり、潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所である。

藤堂高虎らは敵の大船(本体)が近くにいることを知ってその捕獲を図り、9月16日、水路の危険を考えて全軍のうち関船(中型船)数十隻(朝鮮側記録では百三十余隻[7])だけを選抜して鳴梁渡へ向かった。これに対し朝鮮水軍は大船(板屋船)十二、三隻(その他後方に兵力を誇張するために動員された避難民の船百隻[8]があった[9]とされている。)で迎え撃つ。当初他の船は退いてしまい、一時は李舜臣の船一隻だけが立ちはだかった[10]。帥字旗を掲げる李舜臣の旗艦は、海の中にそびえたつ城のように見えたという。旗艦の奮闘ぶりは朝鮮水軍を勇気づけ、僚船が次々と戦線に復帰した。欧米の歴史学者の認識も韓国の見解に近い。日本水軍は押し流され互いに衝突したり、密集しているところを朝鮮水軍の集中砲火を浴びた。日本水軍では来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの甚大な損害を受けた[11][12][要出典]。毛利高政も海に落ちたが、藤堂水軍の藤堂孫八郎と藤堂勘解由に救助された[13]。陸上の戦いではポルトガルより伝来していた火縄銃のおかげで有利な戦いを展開した日本軍であったが、水上の戦いは必ずしもそうではなかった。日本船は船底がV字型をしており速度が速く内海を航行するのに適していたが、波の荒い外洋には不向きであった。朝鮮船は船底が平たく、海が荒れても安定していたが松の厚板をつかっていたこともあり速度が遅かった。装備の面でも朝鮮水軍は船に大砲を搭載していたが、文禄の役に当初日本水軍にはなく一方的に砲撃を受けることがあったがやがて大型船には大砲を搭載した。さらに戦法の面でも日本水軍は敵船に乗り移っての白兵戦が得意であった。それに対して朝鮮水軍は近代的な艦隊運動と砲弾より火矢をつめた砲撃戦を主とした。この時代は明治維新の時期と異なり、両国の国力や技術力に大差がなかったのである。

この海戦における朝鮮水軍の損害は軽微であったとされるが、結局のところ衆寡敵せず、夕方になると急速に退却を開始し、その日の内に唐笥島(新安郡岩泰面)まで後退している[7]。日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは行わなかったが、翌17日には藤堂高虎・脇坂安治らが前日の戦場を見回り、敵船の皆無を確認する[14]。実はこの時点で、同日中に朝鮮水軍ははるか遠く於外島(新安郡智島邑)まで退却していた[7]。21日には170km後方の古郡山島まで退却しそのまま日本水軍が引き揚げるまでそこに身を潜めていた。 これにより朝鮮水軍の撤退後、日本水軍は朝鮮水軍が陣を構えていた右水営を占領し鳴梁海峡を制圧した。

海戦後の経緯

日本軍では8月26日の全州会議で定められた方針に従い、一度忠清道まで進出した陸軍のうち、左軍は全羅道に戻り北から南へと掃討を続けた。全羅道北部の掃討を完了後、この海戦と同時期に開かれた9月16日の井邑会議では残る全羅道南部の掃討方針が定められ、各大名は任地に向けて進撃した。全羅道西南部も9月中旬以降日本陸軍部隊が進出するところとなり、朝鮮水軍はそれらの日本陸軍部隊の西岸部進出に圧倒される形で、その後約1ヶ月間北上して逃避せざるを得なくなった。朝鮮水軍はまともな反撃を行うこともできないままに後退を重ね、9月19日に七山海(霊光郡沖)、9月21日には遥に全羅道北端の古群山島(群山沖)まで後退している[7][要文献特定詳細情報]

他方、こうした朝鮮水軍の退却を受けた日本の水軍は、鳴梁海戦の翌日には朝鮮水軍の根拠地であった右水営を攻撃し、また対岸の珍島を攻略した。さらに鳴梁海峡を突破して全羅道西南岸(現在の全羅南道西岸域)に進出し、ここを陸軍に呼応するかたちで制圧していき、姜沆や鄭希得などの多くの捕虜を得た[15]。 これにより、日本軍の左軍及び水軍は作戦目標であった全羅道全域の掃討作戦を完全に達成した。同時期に北上を続けた右軍も稷山の戦いで明軍を撃退して忠清道を超え京畿道まで進出し、こちらも作戦目標を達成した。このため10月に入ると次の作戦目標である城郭群(倭城)の構築のため、陸軍・水軍ともに進出地から、順天南海朝鮮語版泗川朝鮮語版固城朝鮮語版、唐島瀬戸口(見乃梁)、昌原(馬山)、梁山、蔚山、の新規築城予定地又は既成の城郭に移動し築城作業を開始する[3][要文献特定詳細情報][16]

日本軍が去った後の鳴梁海峡では、ようやく10月8日になって朝鮮水軍が帰還するが、朝鮮水軍の根拠地である右水営は日本軍によって破壊された後であった[7][要文献特定詳細情報]。李舜臣は根拠地を古今島(莞島郡古今面)に移して朝鮮水軍の再建を図ったが、次に積極的な作戦行動を実施するのは1年以上後の順天城の戦い以降となる。

評価

少なく見積もっても10倍の敵に勝利を収めたとして李舜臣の奮闘ぶりは韓国内では高い評価を得ている。

藤堂家覺書[要文献特定詳細情報]はこの戦いを以下のようにまとめ朝鮮軍が撤退したと明記している。

御歸陣被成少前にこもがいへ御成御越候處すいゑんと申所に番舟の大将分十三艘居申候大川の瀬より早きしほの指引御座候所の内に少塩のやはらき候所に十三さうの舟居申候それを見付是非共取可申由舟手の衆と御相談に而則御取懸被成候大船にてそのせとをこぎくたし候儀は成ましきとていつれも関舟を御揃被成御かかり候先手の舟共は敵船にあひ手負数多出来申候中にも来島出雲守殿討死にて御座候其外舟手の被召連候家老之者共も過半手負討死仕候處に毛利民部大輔殿関舟にて番舟へ御かゝり被成候番舟船へ十文字のかまを御かけ候處に番舟より弓てつほうはけしく打候に付て舟をはなれ海へ御はいり被成あやうく候處に藤堂孫八郎藤堂勘解由両人舟をよせてきせむをおいのけたすけ申候朝の五時分より酉の刻迄御合戰にて御座へとも舟之様子番船能存候に付風を能見すまし其せと口をぬけほを引かけはしらせ申に付無是非追懸申儀も不罷成候和泉樣も手を二ヶ所おはせられ候[17]

旧日本海軍が出版した書籍では朝鮮側の勝利であるとされている[18]

アメリカの歴史家たちは 「最終的に、李承晩の13隻からなる艦隊は、その10倍の数の日本艦隊を撃破した。この敗北は日本の西海進出を阻んだだけでなく、朝鮮に海軍再建のための猶予を与えた。鳴梁における李承晩の勝利は、彼の戦術、小規模ながらも強力な艦隊の建造、そして難民の民間人と難民船の戦闘参加によるものであった。」[19] 「日本軍が開海に到達し、疲弊した朝鮮軍が追撃を諦めた頃には、秀吉の艦隊31隻が壊滅し、李氏朝鮮の艦隊は無傷のまま残っていた。こうして日本海軍は慶尚道の国境に向けて後退を開始し、さらに安骨浦と釜山へと向かった。黄海への進路確保は完全に諦め、二度と西方へと進軍することはなかった」[20]と評価している。

その他

来島通総
このとき戦死した伊予来島通総は、海戦に参加した大名(注・江戸時代以降のカテゴライズである「1万石以上の知行」という区切り)としては唯一の戦死者となった[21]。家督は次男の来島長親が継いだ。日本の捕虜となっていた姜沆は「通総が全羅右水営で戦死した時も、弟が代わってその城に居ることになった」と少々の誤認を含んだ上で、“家督相続により、その指揮系統が継承される”日本式の風習を記している。なお通総の庶兄の得居通幸も、朝鮮水軍との海戦で死亡している。
「馬多時」
「乱中日記」に記述のある討ち取られた日本の将“馬多時”は、この海戦で戦死した大名の来島通総と解されていることが多いが、戦死者として日本側の記録に名のある“菅野又四郎正陰”とする説がある[22]。“馬多時”の朝鮮語音はMatashiであり又四と同音という[23]。なお、“菅野”とあるのは誤記であり、正しくは船手衆として加わった大名であり淡路水軍を率いた菅平右衛門(菅達長)の子息である“菅又四郎(菅正陰)”のことである。

関連作品

参照

  1. ^ 『朝鮮役陣立表』(慶長2年)大阪城天守閣蔵
  2. ^ 『日本戦史 朝鮮役』本編 354頁
  3. ^ a b 慶長2年(1597年)2月21日付朱印状『立花家文書』等
  4. ^ 八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状『高山公実録』
  5. ^ 慶長2年(1597年)8月26日付・宇喜多秀家他27名連署状『中川家文書』
  6. ^ 『乱中日記』では指揮下の全数が13隻と解釈できるがその全てが戦闘に参加したかは不詳であり、朝鮮側史料でも『懲毖録』など12隻とするものがある。日本側史料では『高山公実録』では13隻、『毛利高棟文書』では14隻とあり、12から14隻の範囲内であることが推定できるが、史料を基にするならば「13隻」という断言はできない。
  7. ^ a b c d e 「乱中日記」
  8. ^ 『毛利高棟文書』では小船数百艘
  9. ^ 『李忠武公全書』 卷10付録「行状」、「行録」
  10. ^ 『乱中日記』、『李忠武公全書』 卷10付録「行状」、「行録」
  11. ^ 『日本戦史 朝鮮役』本編 368頁
  12. ^ 李舜臣自身は「乱中日記」の中で31隻を撞破(撞破=突き破る)したと書いている。これは李の自己申告である上に、本来の意味での「撞破」は船体をぶつけて相手船を破壊する旨の意味だが、朝鮮水軍の主力船にはそのような(衝角などの)装備はあったとされる史料はないため、好意的に解釈したとしてもあくまで比喩的表現であろうという認識に留まらざるを得ない。
  13. ^ 『高山公実録』
  14. ^ 『毛利高棟文書』
  15. ^ 後に『看羊録』を残した姜沆が9月23日に藤堂水軍の捕虜となった地点は全羅道霊光の西岸である
  16. ^ 征韓録
    NDLJP:936356/117
  17. ^ 史籍集覧. “藤堂家覺書”. 2022年8月23日閲覧。
  18. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  19. ^ James B. Lewis, The East Asian War, 1592-1598; International relations, violence, and memory, Routledge Press, 126p (2014)
  20. ^ Hawley, Samuel (2005). The Imjin War: Japan's sixteenth-century invasion of Korea and attempt to conquer China. Berkeley: Institute of East Asian Studies, University of California. ISBN 9788995442425.
  21. ^ 中川秀政はプライベートでの狩猟中に襲撃されて死亡しているため、この海戦での戦死ではない。
  22. ^ 「両国壬辰実記」撰者割注
  23. ^ 朴鐘鳴 東洋文庫「懲毖録」脚注

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