高家から若年寄へとは? わかりやすく解説

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高家から若年寄へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 21:20 UTC 版)

今川範叙」の記事における「高家から若年寄へ」の解説

天保12年1841年8月4日、父義順の死去により家督相続する嘉永2年1849年11月15日将軍家慶に初御目見する。嘉永3年1850年10月28日高家職就任し従五位下侍従叙任駿河守称した。のち文久2年1862年11月刑部大輔改める。なお、名乗り元治元年1864年3月23日に「国寛」、慶応2年12月15日1867年)に「国広」に改めている(本項では範叙で統一する)。 高家として伊勢神宮日光東照宮代参使などを務める。安政元年1854年4月には、御所炎上見舞いのため京都御使を務めている。 慶応2年12月9日1867年)、惣髪許可を得る。慶応4年1868年2月25日高家職そのまま若年寄就任した。『徳川実紀によれば若年寄のほうが兼任というべき、異例の形であった。範叙の若年寄起用は、新政府東征軍江戸向かって進発する一方徳川慶喜謹慎恭順姿勢を示す情勢の中で、伝統的に朝廷交渉担ってきた高家から登用されたものと推測される幕末期若年寄権限低下し、また非常時という事情はあるが、高家出身若年寄になったのは範叙が唯一の事例である。幕府側による徳川家嘆願運動が行われる中で、範叙(国広)も3月27日付で東征大総督有栖川宮熾仁親王宛に嘆願書提出する徳川慶喜謹慎とする勅旨到達してまもなく、4月5日若年寄解任されている。4月11日江戸城開城し、幕府終焉迎えた

※この「高家から若年寄へ」の解説は、「今川範叙」の解説の一部です。
「高家から若年寄へ」を含む「今川範叙」の記事については、「今川範叙」の概要を参照ください。

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