高家から若年寄へ
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天保12年(1841年)8月4日、父義順の死去により家督を相続する。嘉永2年(1849年)11月15日、将軍家慶に初御目見する。嘉永3年(1850年)10月28日に高家職に就任し、従五位下・侍従に叙任、駿河守を称した。のち文久2年(1862年)11月に刑部大輔と改める。なお、名乗りは元治元年(1864年)3月23日に「国寛」、慶応2年12月15日(1867年)に「国広」に改めている(本項では範叙で統一する)。 高家として伊勢神宮・日光東照宮代参使などを務める。安政元年(1854年)4月には、御所炎上見舞いのため京都御使を務めている。 慶応2年12月9日(1867年)、惣髪の許可を得る。慶応4年(1868年)2月25日、高家職はそのまま若年寄に就任した。『徳川実紀』によれば若年寄のほうが兼任というべき、異例の形であった。範叙の若年寄起用は、新政府の東征軍が江戸に向かって進発する一方、徳川慶喜が謹慎・恭順の姿勢を示す情勢の中で、伝統的に対朝廷交渉を担ってきた高家から登用されたものと推測される。幕末期に若年寄の権限が低下し、また非常時という事情はあるが、高家出身で若年寄になったのは範叙が唯一の事例である。幕府側による徳川家の嘆願運動が行われる中で、範叙(国広)も3月27日付で東征大総督有栖川宮熾仁親王宛に嘆願書を提出する。徳川慶喜を謹慎とする勅旨が到達してまもなく、4月5日に若年寄を解任されている。4月11日、江戸城は開城し、幕府は終焉を迎えた。
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