馬場・佐竹時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:43 UTC 版)
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年 - 1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。 1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。 1427年(応永34年)大掾満幹が鹿島社の青屋祭に奉仕するために常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、江戸通房が水戸城を占拠する。 1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。 義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられた(久保田藩)。 同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
※この「馬場・佐竹時代」の解説は、「水戸城」の解説の一部です。
「馬場・佐竹時代」を含む「水戸城」の記事については、「水戸城」の概要を参照ください。
- 馬場・佐竹時代のページへのリンク