飛行第7連隊練習部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:58 UTC 版)
「浜松陸軍飛行学校」の記事における「飛行第7連隊練習部」の解説
浜松陸軍飛行学校の前身となった飛行第7連隊練習部の部長は次のとおり。 春田隆四郎 少佐:1925年5月1日 - 1926年8月6日(1925年8月7日、中佐に進級) 井下忠助 少佐:1926年8月6日 - 1928年3月24日(1927年3月1日、中佐に進級) 値賀忠治 中佐:1928年3月24日 - 1929年8月1日 佐藤覚一 少佐:1929年8月1日 - 1930年8月1日 佐々誠 中佐:1930年8月1日 - 1931年8月1日 下重長四郎 中佐:1931年8月1日 - 1932年8月8日 本名文誠 少佐:1932年8月8日 - 1933年8月1日
※この「飛行第7連隊練習部」の解説は、「浜松陸軍飛行学校」の解説の一部です。
「飛行第7連隊練習部」を含む「浜松陸軍飛行学校」の記事については、「浜松陸軍飛行学校」の概要を参照ください。
飛行第7連隊 練習部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:58 UTC 版)
「浜松陸軍飛行学校」の記事における「飛行第7連隊 練習部」の解説
1925年(大正14年)3月、陸軍初の爆撃部隊として飛行第7連隊の新設が着手された。同連隊の編制は本部、第1大隊(重爆撃機)、第2大隊(軽爆撃機)、練習部および材料廠を予定し、所沢陸軍飛行学校で行われていた爆撃の教育と研究は飛行第7連隊練習部が担当することになった。5月、練習部が設置されたが同時期すでに偵察および戦闘分科には下志津陸軍飛行学校と明野陸軍飛行学校がそれぞれ設立されていたことに比べ、爆撃分科の教育と研究は遅れをとっていた。これは陸軍の航空に対する価値判断もさることながら、適当な爆撃機の配備が遅れたことが原因である。 飛行第7連隊は当初東京府北多摩郡立川町に置かれ、1926年(大正15年)10月、静岡県浜名郡曳馬村(現在の浜松市中区北西部)に移駐した。練習部における教育は被教育者を「修業員」として入隊させるかたちをとって行われた。
※この「飛行第7連隊 練習部」の解説は、「浜松陸軍飛行学校」の解説の一部です。
「飛行第7連隊 練習部」を含む「浜松陸軍飛行学校」の記事については、「浜松陸軍飛行学校」の概要を参照ください。
- 飛行第7連隊練習部のページへのリンク