韓玄とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 韓玄の意味・解説 

韓玄Han Xuan

カンゲン

(?~?)
長沙太守

建安十三年(二〇八)秋、荊州劉表没すると、その将黄忠曹操から裨将軍任じられ長沙太守韓玄に属して攸県駐屯した《黄忠伝》。十二月劉備周瑜とともに赤壁曹操破り劉琦荊州刺史任ずるよう上表したうえ、軍勢荊州南部進めると、韓玄は武陵太守金旋零陵太守劉度桂陽太守趙範とともに降服した先主伝》。長沙督学署に韓玄の墓と祠があるという《黄忠集解》。

もし彼が曹操によって北方から派遣され人物で、なおかつ長沙で命を終えたであれば降服後すぐさま劉備殺されたことになるだろう。建安十六年に荊州劉備劉璋招かれて蜀に入ったが、それ以前従事廖立長沙太守任じている。おそらくこの間処刑されのである。あるいはもともと地元有力者から抜擢され可能性もあり、張羨とも関係があったか知れない

参照金旋 / 黄忠 / 周瑜 / 曹操 / 趙範 / 劉琦 / 劉度 / 劉備 / 劉表 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長沙郡 / 武陵郡 / 攸県 / 零陵郡 / 刺史 / 太守 / 裨将軍 / 牧 / 督学署 / 墓 / 祠


韓玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/03 23:22 UTC 版)

韓玄
後漢
長沙太守
出生 生年不詳
拼音 Hán Xuán
主君 曹操
テンプレートを表示

韓 玄(かん げん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家武将

正史の事跡

三国志』によれば、韓玄は208年曹操荊州を制圧したときの長沙太守であり[1]209年劉備が荊州南部に侵攻した時も長沙太守で金旋劉度趙範らと共に降伏した[2]。これ以外の記述はないので、以降の韓玄の動向は生死を含めて不明である。一方で、韓玄の指揮下にあった黄忠は、その後、劉備陣営の武将として活躍した。

三国志演義での韓玄

小説『三国志演義』では、生まれつき気が短く妄りに人を殺すので、恨みを買う人物として描写されている。また、に仕えた韓浩の兄と設定されている。

荊州平定をめざす劉備軍の関羽が長沙に攻め寄せて来ると、韓玄はこれに抵抗するため、部将の黄忠らに迎撃を命じる。しかし、黄忠と関羽の一騎討ちでのやり取り(詳細は「黄忠#三国志演義での活躍」を参照)を目撃した韓玄は、黄忠が関羽と内通しているのではないかと猜疑する。このため、ついに韓玄は黄忠を処刑しようとしたが、その直前に客将の魏延が黄忠を救おうと民衆を煽動して反乱を起こしたため、逆に韓玄が殺害されてしまうことになっている。その後、韓玄の遺体は黄忠により長沙城外に手厚く葬られている。

なお、横山光輝の『三国志』では、悪代官風の姿で登場し、暴政を振るっていたように描かれている。

墓と神格化

『中国文物地図集湖南分冊』によれば、長沙市天心区長郡中学校中国語版の体育場敷地内に韓玄の墓が残る。現在は2.4m×1.7mのレンガで囲まれた塚のみで、1983年に「漢忠臣韓玄之墓」との墓碑が建てられた。但し韓玄を忠臣とする根拠は明らかでない。省級文物保護単位。

汪応銓中国語版が著した『閑緑斎文稿』の「韓玄墓記」[3]によれば、清代には、韓玄は怨霊で怪異をなすと考えられ、祟り神として祀るため、役所によりが建てられ墓守も置かれていた。また、『蕉廊脞録』によると、祁寯藻中国語版が長沙にいたころには、神である韓玄が植えた木と使っていた鉄の大鍋とされるものが、霊験のある遺物として伝わっていた[4]

いずれにせよ、これらが引用する口伝野史)は、『三国演義』と同様に、長沙が落城して韓玄が戦死し当地へ葬られたことが前提となっている。そのためか「韓玄墓記」では、『三国志』の「先主伝」にある劉備への降伏と矛盾しないように、韓玄が死亡したのは、215年呂蒙が長沙を含む3郡を襲撃し長沙太守の廖立が逃亡した、いわゆる「奄襲南三郡」[5]の結果だとしている[6]

配下

三国志演義』でのみの配下

参考文献

出典

  1. ^ 「黄忠伝」 卷36#黃忠” (中国語), 三國志, ウィキソースより閲覧, "及曹公克荊州、假行裨将軍、仍就故任、統属長沙守韓玄。" 
  2. ^ 「先主伝」 卷32#先主_劉備” (中国語), 三國志, ウィキソースより閲覧, "先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。" 
  3. ^ 徐兆玮杂著七种(中国近现代稀见史料丛刊.第1辑), p. PT91, - Google ブックス
  4. ^  呉慶坻中国語版, “卷六#湖南學政衙門漢韓玄故物” (中国語), 蕉廊脞錄, ウィキソースより閲覧。 
  5. ^ 「廖立伝」 卷40#廖立” (中国語), 三國志, ウィキソースより閲覧, "建安二十年、呂蒙奄襲南三郡、脱身走、自歸先主。" 
  6. ^ 郷土湖南, p. PT95, - Google ブックス

韓玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「韓玄」の解説

荊州長沙郡太守。自らの楽しみのために民を苦しめていた悪代官として描かれる蜀軍侵攻際し黄忠差し向けるが、その戦いぶりに疑念抱き彼を処刑しようとする。しかしその直前魏延先導され民衆反乱遭い魏延討ち取られた。

※この「韓玄」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「韓玄」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「韓玄」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「韓玄」の関連用語

韓玄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



韓玄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの韓玄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三国志 (横山光輝の漫画) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS