青木鶴子との結婚
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雪洲が青木鶴子と出会った経緯については、さまざまな説がある。鳥海によると、1913年に雪洲が舞台『タイフーン』の上演を企画し、英語が話せる日本人俳優を探そうとロサンゼルスの演劇学校を訪れた時に鶴子と知り合い、それからお互いに惹かれ、親しい間柄となったという。中川と野上によると、2人が『タイフーン』以前から在米日本人同士またはロサンゼルスの演劇仲間たちとの親睦会を通して知り合いになっていたという説があるという。鶴子は『婦人公論』1931年1月号で、21歳頃に養父で画家の青木年雄の絵を見るために何度も出入りしていた雪洲と親しくなったと述べている。インスに『タイフーン』の舞台を観るように勧め、雪洲の映画界入りのきっかけを作ったのも鶴子だった。その後、2人は映画での共演が続いたこともあり、急速に距離が縮まり、1914年4月14日にロサンゼルス郡役所に婚姻届を提出し、5月1日に結婚式を挙げた。2人が正式に日本へ婚姻を届け出たのは1920年のことである。 雪洲と鶴子は、1961年に鶴子が亡くなるまで夫婦であり続けた。結婚後も雪洲と鶴子は映画で共演したが、鶴子はスターとして多忙を極める夫を家庭で支えるため、1920年代に実質的に女優を引退した。鶴子は常に家庭を守り、雪洲の仕事をあらゆるところから支え、雪洲がどれほど女遊びをしようと、大金を使おうと、結局はそれを許してくれるような人物だった。雪洲の方もそんな鶴子にはあらゆる点で頭が上がらず、誰よりも鶴子を信頼し、尊敬し、女遊びをしても鶴子が死ぬまでは一度も離婚を考えなかった。森岩雄によると、黙り屋の雪洲とおしゃべりで明るい性格の鶴子は、「正反対な性格ゆえ補い合って素晴らしいカップル」だという。結婚記念日には、2人が一緒にいない時は必ず電報で祝い、鶴子の誕生日には毎年のように指輪やネックレスをプレゼントした。2人の間に子供は生まれなかったが、雪洲は愛人との間に3人の子供を産ませており、3人とも鶴子の手で育てられている。
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