霧社事件と理蕃政策の見直し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 02:58 UTC 版)
「理蕃政策」の記事における「霧社事件と理蕃政策の見直し」の解説
理蕃警察は、先住民族の生殺与奪を握っており、そのような中、理蕃事業の先進地域と見なされていた霧社で、最大にして最後の先住民族蜂起である霧社事件が1930年(昭和5年)10月27日に発生した。この蜂起は日本の警察と軍によって鎮圧されたが、これに大きな衝撃を受けた総督府は、理蕃政策そのものの抜本的な見直しを迫られた。新たに台湾総督に就任した太田政弘は、着任した訓示の中で霧社事件の善後策を政治課題とすることを表明した。太田の下で理蕃体制の再建を図った新警務局長井上英や理蕃課長石川定俊は、同事件の原因を特定しようとした。井上は、同事件の原因を「警察官が往々にして欺瞞等をもって蕃人に臨むこと」や「官紀上許すべからざる非違」があったと示唆した。理蕃警察官の質や勤務条件に「理蕃の根本問題」を見て取ったのである。1931年(昭和6年)12月28日に「理蕃政策大綱」を制定し、理蕃警察官の「座右の銘」とさせた。同大綱第1項には、「理蕃は蕃人を教化し、其の生活の安定を図り、一視同仁の聖徳に浴せしむることを以って目的とする」とある。このとき「一視同仁」の対象が「蕃人」では、具合が悪いので、先住民族の呼称を、平地に住む「熟蕃」は「平埔族」に、山地に住む「生蕃」は「高砂族」へとそれぞれ改めた。すなわち、「理蕃」をして先住民族の征服ではなく、「一視同仁」という高邁な事業として昇華させ、警察官に高邁な天職意識を植え付けるとともに、先住民族への憎悪軽視の対象としないことを意識させることにより、霧社事件のような「不祥事」の再発を防ごうとしたのである。厳重な警戒態勢のもとでの皇民化政策こそが、霧社事件後の理蕃政策となった。日本人警察官の中には先住民族の生活改善、孤児の自立支援、女性の地位向上などの社会制度改革に真剣に取り組んだ者もいた。
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