集英小学校とは? わかりやすく解説

集英小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 22:23 UTC 版)

大阪市立開平小学校」の記事における「集英小学校」の解説

集英小学校は明治時代初期東船場地区設置され6つ小学校前身としている。6校が1885年に北船場東(のち集英)・中船場東(のち汎愛)・南船場東(のち浪華)の3校に再編された。 その後昭和時代入り1940年代前半大阪市は、中等学校入試難を緩和するための方策として中等学校増設図ったこの際既存小学校国民学校)を近隣校へ統廃合して、空いた校舎転用することで中等学校新設する方法をとった。その一環として1942年汎愛国民学校校舎転用して大阪市汎愛中学校(のちの大阪市立汎愛高等学校)を設置した。これにより、汎愛国民学校集英国民学校統合された。 さらに太平洋戦争に伴う国策で、男子商業学校工業学校への転換とそれに伴う女子商業学校増設のために、1944年には浪華国民学校校舎転用して大阪市立浪女子商業学校戦後大阪市立東商業高等学校統合)を設置したこれに伴い浪華国民学校は久宝国民学校統合された。なお久国民学校戦災被災のため1946年廃校され、同校校区のうち浪華統合前の元々の久宝校校区大阪市立愛日小学校校区へ、また旧浪華校区を集英小学校校区へとそれぞれ分離編入した。 なお、旧汎愛国民学校跡(現在の中央区淡路町)は大阪市立汎愛高等学校として使用されたが、同校移転後企業ビルとなった。また旧浪華国民学校跡(現在の中央区久太郎町1丁目)は大阪市立東商業高等学校として使用されたのち、同校廃校後タワーマンションとスーパーマーケット・ライフ堺筋本町店が建設された。 太平洋戦争前には3校あった小学校を1校に統合する形で、1947年学制改革によって大阪市立集英小学校となった。しかし1970年代頃から児童数減少傾向が目立つようになり、同様に児童数減少目立っていた大阪市立愛日小学校との統合の話が持ち上がった大阪市教育委員会や両校の学校地域関係者らが折衝進め1989年9月大阪市教育委員会から2校の統合が正式発表された。統合開平小学校設置されたことに伴い、集英小学校は1990年3月閉校となった

※この「集英小学校」の解説は、「大阪市立開平小学校」の解説の一部です。
「集英小学校」を含む「大阪市立開平小学校」の記事については、「大阪市立開平小学校」の概要を参照ください。

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