階段を濡らして昼が来てゐたり
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評 言 |
摂津幸彦の俳句は普通によく見る俳句とは大きくかけ離れ、意味もよく分からないものが多かった。しかし、なぜか魅せられ虜になってしまった。かつて、最近の若い人がつくる俳句は分からない俳句が多いが昭和五十年代にもすでに分からない俳句がつくられていた、という文を書いたことがある。その時取り上げた俳句が掲句だった。 その句、階段を濡らしたのは誰か、といえばわたしは部屋に差し込んだ日のひかりを思う。古くて大きな日本家屋の階段に日差しが忍び込んできて濡らしたようにそこだけ光っている、の図である。なんと静寂で淫靡で、どこかなつかしい世界ではないか。 ほかに、惹かれる作品に、 濡れしもの吾妹に胆(きも)にきんぽうげ 幾千代も散るは美し明日は三越 おどろきの桃の木黄泉の木にまじる 沈黙や夕べはひどく犀である 露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 樺の木を押すやうに切る頸動脈 など挙げればきりがない。 こうしてみてくると、意識や感情としての懐旧、虚無、死と生、時代認識、エロティシズムあるいは修辞としてのリフレインや言葉の重層性、はぐらかしなどが姿を変え繰り返し出てくるのである。はじめ摂津幸彦の俳句はわからないと書いたが、分からないのではない。今ではむしろ分かりすぎるくらいだと言えるのである。なにしろわたしは意味を追わずに、言葉の持つイメージに感応して自由に想像し、快いリズムに浸り、時にクスリと笑いながらこれらの摂津幸彦俳句をくりかえし読んでいるのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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