陣屋の性質と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 13:43 UTC 版)
「大垣新田藩畠村陣屋」の記事における「陣屋の性質と構造」の解説
大垣新田藩は定府扱いとなっていたことから、藩主は大坂加番時等を除けばほとんど江戸屋敷に居住した。家臣団の多くも江戸詰めであり、幕末期に作成された『大垣新田藩家臣分限帳』によると、99人いる藩士のうち畠村陣屋に勤めた者は7名だった。彼らは郡奉行・代官・目付・山廻り役などとして渥美郡6か村、額田郡5か村の統治に当たった。 陣屋の規模はおよそ55m×25mの長方形(416坪)であり、陣屋の西側から北側にかけて扇形状に藩士の屋敷が配されていた。『元野村県出張所畠村地図』によると北側には堀と土塁が存在していたことがわかる。また、建物については1833年(天保4年)に畠村を訪問した田原藩士で画家の渡辺崋山によるスケッチがあるが、これによると石垣を伴う冠木門2か所、長屋門1棟、柵、奥に建物があることが確認できる。鉄砲稽古場も存在していた。 また、江戸時代には陣屋の西側の河口部が港となっており(畠湊、現在の福江港)、河口部に沿って周辺に町屋が形成された。港は伊勢・尾張・三河を結ぶ結節点となり、尾張商人などの進出もあり大きく賑わった。
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