陣屋と陣屋町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:27 UTC 版)
保科氏は中世以来の多古城に入ったと考えられる。多古城は、保科氏の転出や、一国一城令を経て破却されたものと考えられる。松平氏が入ると高野前地区に多古陣屋を構えた。敷地は現在の多古町立多古第一小学校の校庭の一部にあたる(明治期に陣屋の建物が小学校として使用された経緯による)。 『多古町史』によれば、多古村の市街地は「松平氏一万二千石の城下町であるより先に宿場町」であったという。銚子・江戸往還の継立場・宿場である多古宿は幕府の道中奉行の支配を受け、公用の伝馬役を負わされていた。 松平氏の時代、武家屋敷は広沼地区東部の「西屋敷」(地元では「お西」と呼ばれる)に置かれたが、陣屋からは離れた立地となっている。これについては、多古城時代に造営された侍屋敷が引き継がれたためではないかとする説がある。
※この「陣屋と陣屋町」の解説は、「多古藩」の解説の一部です。
「陣屋と陣屋町」を含む「多古藩」の記事については、「多古藩」の概要を参照ください。
- 陣屋と陣屋町のページへのリンク