防衛司令部の強化
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1937年8月に、中部防衛司令部と西部防衛司令部が発足した。建物は、中部防衛司令部は第4師団司令部の一部に入り、西部防衛司令部の所在地は、小倉にある野戦重砲兵第2旅団司令部と小倉連隊区司令部の一部とされた。人員の一部は第4師団、第12師団の兼任者であった。 1937年11月27日制定(29日公布、12月1日施行)の昭和12年軍令陸第8号による防衛司令部令改定で、防空管区と警備管区の区別が付けられた。防空管区は複数の師管にまたがる従来からの管轄地で、防衛司令官は防空に関して管区内の部隊を指揮できるようになった。警備管区は防衛司令部が所在する師管を範囲とし、そこについてだけ、防衛司令官が警備に関する権限を行使できるようになった。師団長より上になったが、それでも軍隊用語での指揮下は状況による一時的な上下関係にすぎない。1939年に、防衛司令官には師団に対する査閲権があるのかという照会が、師団司令部から相次いであった。「師団長の統帥に関わる重要事項」だという質問に対し、陸軍省の回答は、防衛司令官は師団長に対し「所見を述べ得る」のだという曖昧なものにとどまった。 また、司令部は従来「官衙」の扱いであったが、1937年12月1日から「軍隊」とされるようになった。同時に東京警備司令部が廃止されたため、東部防衛司令部と東京警備司令部の重複は解消された。
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