閘門建設までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:53 UTC 版)
尼崎市では臨海部において明治後半から工業化が進み、運河等による物流が盛んになると共に、工場による地下水の汲み上げが続けられてきた。その結果地盤沈下が発生し、市内の約1/3(特に南部地域)が海面よりも低い「ゼロメートル地帯」となり、1934年(昭和9年)の室戸台風や1950年(昭和25年)のジェーン台風等による浸水被害を受けるようになった。 浸水対策については尼崎港改修の一環として、兵庫県の工事による防潮堤が1950年までにほぼ完成していたが、前述のジェーン台風被害の経験から、島状の土地ごとに堤防を築く方式ではなく、海岸線全域を覆う大規模な閘門式防潮堤が計画された。これにより運河の物流機能を維持しつつ、高潮や洪水等の浸水被害から地域を守ることが可能となった。 防潮堤の工事分担については大部分が兵庫県の直轄、一部が運輸省第三港湾建設局の委託となり、総工費20億円のうち国が4割、市と県が3割ずつ負担をした。毎年のように水害に見舞われていた尼崎市は、国の提示した5か年計画に対し3か年で工事を実施するため、国・県負担金を一時立て替えることになった。
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