長畝郷田島から北の庄へとは? わかりやすく解説

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長畝郷田島から北の庄(福井)へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 05:18 UTC 版)

興宗寺 (福井市)」の記事における「長畝郷田島から北の庄福井)へ」の解説

もとは越前長畝郷田島(現在の福井県坂井市坂井町田島辺り)に寺基があった。今でも御坊前」と称する田や、「堂越」とか「堂垣」という名字残っている。 1585年天正13年北ノ庄城堀秀政本願寺顕如当時石山本願寺から雑賀転じていた)に北庄柳町寺地寄進し、1587年天正15年)に柳町御坊(表御堂福井御坊、のちの福井別院)が造営された。これに伴い越前大寺院が集められ興宗寺柳町転じている(現在の福井地方裁判所辺り)。 更に1659年万治2年)と1669年寛文9年)の大火機に城下整備が行われ、城下北端現在の宝永小学校)へと移転が行われ、千五百坪の境内地には繁り堂々たる伽藍庫裏書院等が整備された。この時、柳町にあった御堂(後の本願寺福井別院西別院)・本覚寺照護寺千福寺なども一緒に移転が行われ、門前町形成され御堂町呼ばれた福井県史より)。 戦災昭和23年1948年)の福井地震の為、興宗寺建物のほとんどが壊滅戦後復興震災復興の為、市内の区整理が行われ宝永小学校移転があった。その為、興宗寺代替地与えられ現在の福井市松本3丁目11-19に移転し今に至る(現在の宝永小学校南東側)。(福井市設置解説板より)

※この「長畝郷田島から北の庄(福井)へ」の解説は、「興宗寺 (福井市)」の解説の一部です。
「長畝郷田島から北の庄(福井)へ」を含む「興宗寺 (福井市)」の記事については、「興宗寺 (福井市)」の概要を参照ください。

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