長坂会敵からその後迄の顛末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 18:50 UTC 版)
「長坂の戦い」の記事における「長坂会敵からその後迄の顛末」の解説
一路南下する劉備らは、新野より随う領民を擁した為に進行に遅れが生じてしまう。途上の当陽県長坂に差し掛かった際、遂に曹操軍に追いつかれ攻撃を受けてしまった。曹操軍先鋒の文聘の攻撃、続く曹操軍の攻勢を劉備の義弟の張飛が殿として防戦していたが、曹操軍の波状攻撃を前にして敗退を余儀無くされる。劉備は随って来た領民、妻子を見捨てて一刻も早く撤退、勢力を整え再起を図ろうとしたが離散する配下将軍は数知れず、側近の糜竺や簡雍らともはぐれてしまっていた。そして、混乱の最中に劉備の妻の糜夫人・甘夫人や劉備嫡子の阿斗(後の劉禅)家臣の糜竺らは魏兵に生け捕られてしまい、これを重んじた劉備旗下の将軍の趙雲は、迫る曹操の軍へと馬首を返すと単騎で夫人らの救出を試みる。その後、魏将の淳于導の下に囚れの身となっていた糜竺、その後に甘夫人を救出して張飛に送り届け、趙雲は糜夫人・阿斗の捜索の為に迫り来る曹操軍へと再び馬首を返した。途中、立ちはだかる幾人かの曹操軍の将を斬り、ややあって民家付近で倒れていた糜夫人を発見する。糜夫人は重傷を負っており、足手まといになるとして趙雲に阿斗を託すと、傍に在った井戸へと身を投げたのだった。趙雲は、阿斗を擁して劉備の元へと無事に帰参し、劉備はこの事に甚く感激したという。その後、長坂橋に威を張る張飛の気迫と諸葛亮の計略とを懼れた曹操軍は追走が侭ならず、後に長坂橋が焼き払われるを以って劉備軍の兵力寡少を知ったという。これにより曹操軍を一時的に足止めする事に成功した劉備一行は、先行していた関羽・諸葛亮らの水軍と合流、長江沿いに南下した。 斯くして、虎口を脱した劉備は曹操からの難を逃れ、夏口へ到達する。ここに於いて劉琦と会見、江南の領主の孫権の命で荊州情勢を探りに来た魯粛と落ち合うと、事態は後の赤壁の戦いへと遷移してゆく事になる。又、先の長坂に於ける功で趙雲は牙門将軍へ昇進、後も蜀の忠臣として活躍する。
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