鈴村正弘が教育長を辞職
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「岡崎市立城北中学校」の記事における「鈴村正弘が教育長を辞職」の解説
生徒に対する体罰をほしいままにした甲山中学では暴力の連鎖を生んだ。1982年(昭和57年)3月4日、3年生の男子生徒7人は生活態度を注意されたことなどを理由に、約30分近くにわたって、教師12人に殴る蹴るの暴行を加えた。警察署員約10人が学校からの通報で駆けつけるも、生徒は「何だお前らは」などと署員に食ってかかり乱暴をやめなかった。3人が現行犯で逮捕され、4人が補導された。翌3月5日、教育長の鈴村正弘は2年8か月の任期を残して辞表を提出。3月31日付で辞職した。後任は城北中学校長の横井滋が就任した。 市民の会のメンバーが丸刈り強制反対を訴え続ける中、1988年(昭和63年)4月9日、市教育委員会指導部長の伊豫田壽夫が教育長に就任。同年4月25日には文部省初等中等教育局長が都道府県教育委員会に対し、校則の見直しを指示するが、城北中学が率先して校則改正に着手することはなかった。 1990年(平成2年)12月10日、伊豫田教育長が「丸刈り規正を見直したい」と発言したことが新聞で報道された。1991年(平成3年)3月、岡崎市で「さよなら管理教育」全国集会が開かれ、同年9月、岡崎市立南中学校が他校に先駆けて男子の頭髪の自由化を実施。パターナリズム的な暴力に根差した管理主義教育は90年代から徐々に影を潜めていった。
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