金朝とは? わかりやすく解説

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金 (王朝)

(金朝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 16:37 UTC 版)

(きん、拼音:Jīn、女真語 [amba-an antʃu-un][1]1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝[2]


注釈

  1. ^ 沿海地方
  2. ^ ジュシェンの黄金は、もともとキタン人の官吏や商人によって開発されたものではあった[11]。宋では比較的銀の価値が高かったが西域では金の価値が高かったので、遼では西域との交易には金を充当したと推定される[11]
  3. ^ ヘリンボの父の烏古廼(ウクナイ)は長男の劾者(ヘテェ)と次男のヘリンボを一緒に住まわせ、ヘテェが家政の一切を、ヘリンボには主として外事を担当させた。そのため、ヘテェの子の撒改(サガイ)や孫の粘没喝(ネメガ)はヘリンボの子孫であるアクダやウキマイと並んで一族内で大きな勢力をふるった[15]
  4. ^ 按出虎水の女真名アルチュフは、女真語で"黄金"を意味しており、「金(アルチュフ)」の国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる[3][5][12][13]。ジュシェンの富強の源泉となった物資は、砂金以外ではが考えられる[12]。阿城区の南東約30キロメートル地点に金代とみられる製鉄遺跡が確認され、発掘調査1960年代になされている[12]。沿海州からも金代の製鉄遺跡が見つかっており、そこでは精錬鍛造の技術をともなっており、工程に応じた地域間分業がある程度成立していたことも判明している[12]
  5. ^ 当初馬政が使者として送られたこの交渉で暗躍したのが、宦官の童貫であった[17]。童貫は、徽宗の文人趣味に取り入って帝に重用され、軍事権を専断し[17]、方臘の乱鎮圧の任にもあたった[18]。なお、『水滸伝』で有名な宋江は童貫にしたがって方臘征討軍に加わり、いくらかの功績をなしたといわれている[18]
  6. ^ 当時は西夏の領域。
  7. ^ 耶律淳は、漢人官僚李処温らに推されて皇帝位についた(北遼[20]。当時、耶律淳とともに燕京を守っていた遼の皇族に、太祖耶律阿保機の八世の孫と称する耶律大石がおり、彼は支配下にあった部族を率いて西走し、陰山の天祚帝のもとへ向かったが、天祚帝とも意見があわず、さらに西に向かい、中央アジアの東西トルキスタンに帝国を建国した[21]。これが西遼(カラ・キタイ)であり、東カラハン朝の首都のベラサグンを占領して国都とした[21]
  8. ^ 燕京を陥落させたアクダに対し、部下が宋にあたえることなくずっと金が占領したらいかがかと進言すると、アクダは「燕京ほか六州はすでに返還を約束した。自分は男子であり、二言はない」と答えたという[20]
  9. ^ 「女真小字」の方は、1138年天眷元年)に第3代皇帝の熙宗ホラが制定し、1145年皇統5年)に公布したというが、大字小字ともに『金史』に具体的な文字の詳細は記述されていない[22]
  10. ^ 金はキタンの領域に加え、新たに華北も支配したが、遊牧民の世界であるモンゴル高原にまでは支配が及ばなかった。それゆえ、その支配が緩むと遊牧諸部族の主導権争いが発生し、これがやがてチンギス・カンの台頭につながったとみることができる[5]
  11. ^ 太宗ウキマイの時代も君主と臣下の身分的へだたりは緩かった[24]。臣下がキジを料理したからとウキマイに気軽に声をかけると彼も気軽に立ち寄ってキジを御馳走になり、ときに君臣一緒になって川遊びをするなど、中華ではみられない気さくさと親愛に裏打ちされた君臣関係がみられた[24]
  12. ^ 金500万両、銀5,000万両、牛馬1万頭、布帛100万匹。
  13. ^ 岳飛らの軍人は主戦論を展開し、知識階級もこれに同調した者が多かった[26]。宰相の秦檜らを代表とする講和派は、使者として北方に出向いたり、捕虜にされるなどしてジュシェン金の実力を知悉している現実主義者が多かった[26]
  14. ^ 皇室の妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦にさせられたという[28]
  15. ^ 太宗ウキマイは、1126年、華北を支配するため三省を設けたが、ここで短時間ではあったがボギレ制と三省制度が共存した[24]
  16. ^ 康王は、徽宗の第九皇子で、靖康の変の際、開封にいなかったため皇族のなかで唯一難を逃れていた[29][31]
  17. ^ 康王はしかし、父も兄も生きている以上、皇帝として即位するわけにはいかないと当初は固辞し、張邦昌のやり方にも批判的であった[31]。張邦昌は、哲宗の皇后を廃されて尼僧となっていた孟氏(元祐皇后)を皇太后として垂簾聴政をおこない、群臣を集めた[4][31]。群臣は、こぞって康王に帝位に就くことを要請し、時勢ただならぬことを理解した康王が即位を了承した[31]
  18. ^ これ以降の宋朝を南宋という[4][5]
  19. ^ しかし、1135年にウキマイが死去、1137年にネメガが没すると後ろ盾を失った劉豫も皇帝の座を降ろされ、斉国は廃止された。
  20. ^ 主戦派の岳飛は講和成立後まもなく処刑された[4]
  21. ^ この法令は、歴代の中華王朝の律令を参照してつくられた[34]
  22. ^ 海陵王は、彼の死後、帝位に就いたことも否定され、単に海陵王とのみ記録されている[32]
  23. ^ 海陵王は目的達成のために、自身の母親さえ殺している[35]
  24. ^ 海陵王の北京遷都は、彼が漢人の文明に心酔していたためもあり[35]、また、彼の理想が中国的な専制国家の完成にあったということも理由として掲げられるが[24]、当時の経済事情もこれにあずかっていた[32]。経済的には、物産豊富な江南が華北よりも実力が勝り、当時としては巨大な人口を擁していた[32]。莫大な人口をもち、南宋との経済関係が密接な華北の統治を、中原から遠く離れた会寧で統制するのはもはや困難になっていた[32]
  25. ^ 海陵王は帝位に就く前から熙宗の皇后(悼平皇后)とも仲がよく、女色家として知られていた[35]。「天下統一」の野望も、宋に劉貴妃(劉希)という絶世の美女がいるという評判を側近(宦官)から聞いたためだったともいわれている[35]
  26. ^ 世宗が南宋との講和を急いだ理由は、キタン人がかつての遼王家の治める中央アジアの西遼と連携して行動することを警戒してのことであった[32]
  27. ^ 衛兵にも漢語を使わせなかったという。しかし、漢化の勢いは止めようがなく、猛安・謀克の世襲においてもほどこしたほどであった。
  28. ^ 1194年から95年にかけて、いまだ弱小勢力であったテムジンは金朝のタタル族討伐に協力してジャウトクリの称号が金の将軍完顔襄より授けられたが、この時点でのテムジンと金朝皇帝との力関係では、当然のことながら後者が圧倒的優位に立っていた[44]。そればかりではなく、トオリルの与えられた称号はオン・カン(「オン」は王の意)であって、テムジンからすれば主筋にあたった[45]。テムジンは1203年、一瞬の隙をついてトオリル(オン・カン)を奇襲で倒している[45]
  29. ^ 通用期限なしの紙幣はのちの元朝に引き継がれた[34]
  30. ^ しかし、以前から、モンゴル高原に少しでも有力な勢力があらわれると、すぐに介入して強力な統一権力を阻止してきた金朝からすれば、この金・南宋戦争はまことに不運であり、モンゴルからすればたいへん幸運だったということができる[43][46]杉山正明(東洋史)は、金帝国からモンゴルをたたく機会はこのときしかなかったのではないかと指摘している[46]
  31. ^ 徒単鎰急死の直後に開封遷都への宣言がなされており、彼が宣宗により粛清されたことも疑われる[48]
  32. ^ 1333年、蒲鮮万奴がオゴデイの息子のグユクが率いるモンゴル軍によって捕らえられ、大真国も滅亡した[47]
  33. ^ 理宗に仕えた南宋の高官趙范中国語版は、「かつて北方から興った金と結んで遼を挟撃したことがあったが、それは結局災禍を招いただけであった」と述べ、モンゴルとの同盟に慎重な意見を進言したが、弟の趙葵中国語版は、「現国家の兵力は十分ではなく、しばらくモンゴルと和して、国力が充実したら徽宗・欽宗の恥をそそいで中原を回復すべし」と主張し、趙葵の意見が通った[32]
  34. ^ 長春真人はのちにチンギス・カンの招きを受けて西征途上のチンギスとヒンドゥークシュ山脈の南で会見し、その信任を受けるようになると教勢はさらに拡大し、華北における道教の主流として大勢力を確立した[56]
  35. ^ 才色兼備で有名な古代中国の女性。

出典

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  3. ^ a b c d e f g h i j k 梅村(2008)pp.415-418
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 宮澤・杉山(1998)pp.206-210
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 宮脇(2018)pp.62-64
  6. ^ a b 女真』 - コトバンク
  7. ^ a b c d 石橋(2000)pp.64-66
  8. ^ 松村(2006)pp.145-147
  9. ^ 岸本(2008)pp.239-242
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  11. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.251-253
  12. ^ a b c d e f g h i j k 河内(1989)pp.230-232
  13. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.254-256
  14. ^ a b c 河内(1989)pp.228-230
  15. ^ a b c d e 河内(1970)pp.44-48
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n 梅村(2008)pp.418-420
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  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 河内(1989)pp.232-235
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  32. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 梅村(2008)pp.423-431
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  39. ^ 佐伯(1975)pp.307-310
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  41. ^ a b 佐伯(1975)pp.302-304
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  47. ^ a b c d e f g h i j 河内(1989)pp.235-237
  48. ^ a b c d e 杉山(2008)pp.99-102
  49. ^ a b c d e f g 杉山(2008)pp.121-122
  50. ^ a b c d 池上(1989)pp.158-159
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  52. ^ a b c 梅村(2008)pp.460-464
  53. ^ a b 董西廂』 - コトバンク
  54. ^ 元好問』 - コトバンク
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  56. ^ a b c d e f 佐伯(1975)pp.306-307
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  62. ^ a b c 弓場(1999)pp.44-50
  63. ^ a b c 『中国書人名鑑』(2007)p.97
  64. ^ 王庭筠』 - コトバンク




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