撒改とは? わかりやすく解説

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撒改

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/30 05:20 UTC 版)

撒改(サガイ、生年不明 - 1121年)は、宗室で景祖烏古廼(ウクナイ)の孫。金の世祖劾里鉢(ガリベチ)の長兄の韓国公劾者(ヘテェ)の子。1115年7月、国論勃極烈(国務大臣に相当)に任じられ、9月には国論忽魯勃極烈に改められた。死後、燕国王に追封された。海陵王正隆年間(1156年-1161年)には陳国公に降封されている。大定3年(1163年)、金源郡王を改めて贈られ、太祖阿骨打(アクダ)の宗廟を受けて「忠毅」の号が授けられた。子に粘没喝(ネメガ、完顔宗翰)・阿懶中国語版(アラン、完顔宗憲)がいる。


注釈

  1. ^ ネメガは天会3年(1125年)、阿骨打の弟の呉乞買(ウキマイ)によって左副元帥に任命された。粘没喝は大同に潜伏していた遼の最後の天子の天祚帝を捕虜として遼を滅ぼし、西京大同府を自らの基盤とした。金はこれにより内モンゴルを支配した[3][4][5]

原史料

  1. ^ 『金史』巻一 本紀第一 世紀:「粛宗時擒麻産、遼命穆宗為詳穏。大安十年甲戌、襲節度使、年四十二。以兄劾者子撒改為国相。」[2]
  2. ^ 『金史』巻一 本紀第一 世紀:「景祖九子、元配唐括氏生劾者、次世祖、次劾孫、次粛宗、次穆宗。及当異居、景祖曰:「劾者柔和、可治家務。劾里鉢有器量智識、何事不成。劾孫亦柔善人耳。」乃命劾者与世祖同居、劾孫与粛宗同居。景祖卒、世祖継之。世祖卒、粛宗継之。粛宗卒、穆宗継之。穆宗復伝世祖之子、至於太祖、竟登大位焉。」[2]

出典



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