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金朝興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 09:09 UTC 版)

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金 朝興(きん ちょうこう、生年不詳 - 1382年)は、初の軍人本貫は無為州巣県

生涯

淮西の乱が起こると、人々を集めて寨を結んで自衛した。兪通海らが朱元璋に帰順すると、朝興もまた人々を率いてかれについた。朱元璋に従って長江を渡り、その征戦にいずれも参加して、功績があった。常州を陥落させると、朝興は都先鋒となった。宜興を奪回すると、左翼副元帥となった。武昌を平定すると、龍驤衛指揮同知に進んだ。張士誠を平定すると、鎮武衛指揮使となった。大同を攻略すると、大同衛指揮使に転じた。東勝州を奪取し、元の平章の劉麟ら18人を捕らえた。

1370年洪武3年)、論功により都督僉事・兼秦王左相となった。ほどなく都督府事を解任され、秦王朱樉の傅をつとめた。1371年(洪武4年)、傅友徳らに従ってを攻撃した。1374年(洪武7年)、軍を率いて黒城に到達し、元の太尉の盧伯顔や平章の帖児不花ならびに省院らの官25人を捕らえた。李文忠に従って東道の兵を率いて、カラコルムを奪取した。

朝興は沈着勇敢で智略を備え、偏師を率いていたるところで勝利を得た。大軍を率いることはなかったが、功績は諸将の上をいった。1378年(洪武11年)、沐英に従って西征し、納鄰七站の地を獲得した。翌年、論功により宣徳侯に封じられ、指揮使を世襲することとされた。1382年(洪武15年)、傅友徳に従って雲南に遠征し、臨安に軍を進駐させた。元の右丞の兀卜台・元帥完者都や現地の首長の楊政らが降伏してきた。進軍して会川に宿営していたところ死去した。沂国公に追封された。は武毅といった。1384年(洪武17年)、雲南を平定した功を論じられて、改めて世侯券を与えられた。

長男の金鎮が宣徳侯の封を嗣いだ。1390年(洪武23年)、朝興は生前に遡って胡惟庸の党とされ、金鎮は平壩衛指揮使に降格された。金鎮は征討に従って功績があり、都指揮使に進み、後に世襲衛指揮使とされた。1522年嘉靖元年)、朝興の廟が雲南に立てられ、額には「報功」とあった。

参考文献

  • 明史』巻131 列伝第19



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