金の鞍伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 16:42 UTC 版)
関係すると思われる記録の初出は『三宝寺縁起』(享保2年=1717年)で、これには「三宝寺池からは多くの霊宝が出たが、中世の騒乱の中で所在が分からなくなった」とある。その後(文化年間=1804~1818年)の『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』に「南北朝時代に、練馬将監(ねりましょうげん)善明(よしあき)という武将が石神井で敵に追い詰められ、自殺にした。その跡に水が湧き、三宝寺池となった。善明の馬の鞍はその池の主となった」とあり、ここで初めて「馬の鞍」が登場する。これらが変化して、明治18年(1885年)の『三宝寺由緒概略』では「昔、豊島泰経の馬が誤って金の乗鞍を池に落とした。引き揚げられず、その鞍は沈んだまま池の主になった」となり、さらに前述の小説「照日松」とも合体して、「石神井城主が道灌に攻められ、金の鞍とともに三宝寺池に入水した」「池の中には豊島泰経の金の鞍が沈んでいる」との話が出来上がった。さらにこの話には尾ひれがつくようにして「池岸の『照日の松』に登ると金の鞍を望むことが出来た」との話も生まれている(松の木については、「栗原家内の松」「池北岸の松」「穴弁天前の松」の3説があった)。この話を信じ込んだ村人たちにより、明治41年(1908年)には、三宝寺池で〝宝探し〟騒動も勃発している(この騒動はその後も続き、大正2~3年頃、昭和初期にも池中探索が行われた)。しかし、当然のことながら成果は全く上がらぬままで探索は終了となった。 ↓
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