野田道場と田邊又右衛門
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1950年『スポーツタイムス』に連載された田邊又右衛門の口述を砂川貞が筆記した記事によると、田邊又右衛門は岡山市で野田権三郎の道場と試合を行っている。野田道場で出てきた相手がどれもこれも弱い弱い手応えのない人で何という人が居合わせたか田邊は覚えていなかった。岡山市にある道場なので少しは面白い相手がいると考えていたが出るもの来るもの弱い有象無象のものであっけなく感じたという。 田邊は稽古の帰り際に野田道場を馬鹿にする文句を並べたところ、それが野田の耳に入った。田邊が三回目に野田道場にいった際、野田は道場に強い者がいないというわけではないので、もし強い者と試合がしたいのであれば出石の近藤や東京に出ている吉田という叔父(吉田直蔵)に来てもらってもよいと田邊に言った。田邊は了承し正月に両人を呼び寄せることとなった。 田邊が野田道場で問題を起こす前、竹内流の片岡平之進道場に顔を出していた。この頃の岡山県では野田道場と対抗し竹内流の片岡道場が盛んであった。片岡道場では片岡仙十郎と立ち合い、一日目は引き分け、二日目は逆を取られて負け、三日目は引き分けとなっていた。田邊と片岡は気があっていたこともあり、野田道場で正月の約束をした足で片岡道場に出かけ委細を片岡平之進と仙十郎に語った。竹内流は起倒流と仲が良く無かったため、当日は後見として出かけるという話になった。 その後田邊は腕を練りながら約束の日を待ち、その日になって岡山に乗り込み片岡平之進と仙十郎と共に野田道場に押し掛けた。 ところが野田道場に行ってみると近藤も吉田直蔵も来ておらず、野田権三郎が一人座っていただけだった。片岡仙十郎が田舎から田邊が出てきたのに返すわけにもいかないので稽古をしてあげてくださいと頼んだ。田邊も野田に一本やってもらおうと思いお願いしたが、野田は恐縮し稽古をしようとはしなかった。
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