野尻治部
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野尻 治部(のじり じぶ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。政長流畠山氏の家臣で北河内の有力領主だったが、天文21年(1552年)に没落した。文書で確認できる諱は「泰」で、官途名は治部丞。
経歴
天文10年代の治部
野尻氏は河内守護を務めた政長流畠山氏の有力内衆で[1]、河内国交野郡[2]牧郷(大阪府枚方市[2])を本拠にしたとみられる[3]。
天文15年(1546年)10月6日、「野尻治部丞泰」の署名で観心寺に宛てて判物が出されており[4][5]、治部が判物を発給しうる権力であったことが分かる[4]。
この前年の天文14年(1545年)5月24日[6][7]、細川氏綱の挙兵を鎮圧するため、細川晴元が軍勢を派遣しているが、その中に500の兵を率いる野尻氏の姿がある(『言継卿記』)[8][注釈 1]。この動員数から、治部は北河内最大の戦国領主であったといえる[4]。
この他、牧郷の招提寺内に関する文献に治部の名が現れる[10]。招提村(枚方市招提元町[11])の庄屋である片岡正次(法名誓円)が近世初期に記した『誓円ノ日記』によると、天文11年(1542年)にその準備が始まったとされる招提寺内建設に際し、小篠兵庫が河内守護・畠山氏からの寄進状と守護代・遊佐氏からの添状を得ているが、これは「野尻治部少殿」への働きかけを通じてだったという[12]。
天文18年(1549年)には、小篠兵庫と正法寺正寿庵の間で「野尻治部殿荷物」について書状が交わされている[13]。正法寺は山城国綴喜郡八幡清水井(京都府八幡市[14])にある寺院で[15]、石清水八幡宮の境内に所在した[16][注釈 2]。この時の史料から小篠兵庫を治部の被官とする見方もあるが[20]、鍛代敏雄や馬部隆弘は兵庫を安見宗房の被官としている[17][21][注釈 3]。馬部によると、これら史料は正寿庵に預けられていた治部の荷物が小篠兵庫に引き渡される際のもので、招提寺内建設に当たって口利きをするなど、懇意の仲である小篠兵庫のいる招提寺内へ治部が荷物を移したことになるという[23]。
北河内には細川晴元の内衆で畠山在氏(義就流畠山氏)の守護代である木沢長政が築いた飯盛城があるが[24][25]、治部の活動が見られるようになるのが天文11年(1542年)3月の木沢長政の戦死後であることから、その活動は長政により制限されていたと考えられる[3]。また、16世紀中頃の牧郷と交野庄には「牧・交野一揆」と呼ばれる一揆があり[26]、天文11年(1542年)3月には、南山城の狛孫一が「牧・交野」へ軍事動員を行っていた[27]。この後、天文13年(1544年)、鷹山弘頼が交野郡の武士たちとみられる「河内勢」300余りを率いて大和で活動しており(『多聞院日記』)[28]、天文14年(1545年)には前述の通り、牧郷の野尻氏が500の兵を動員している[29]。これらのことから、木沢長政の死後、牧・交野一揆への軍事動員権は狛孫一から鷹山弘頼と治部に移ったものとみられる[3]。
没落とその後
天文20年(1551年)5月、河内守護代の遊佐長教が暗殺された[30]。すると下郡代として飯盛城にいる安見宗房と上郡代として高屋城に在城する萱振賢継の間で対立が起きる[30]。この頃、高屋城には萱振氏の他、遊佐長教に次ぐ地位にあった[31]丹下氏や治部らが居住していた[30]。天文21年(1552年)2月、安見宗房は萱振賢継を飯盛城に招いて殺害し、次いで高屋城に向かうと賢継に同心する者たちを打ち殺した[32]。この時、中小路氏らは自害し[33]、治部は半死半生で逃れた[30]。この後、野尻氏の名跡は安見宗房の子の満五郎が継ぎ、牧郷は宗房が掌握することとなった[30]。
明和8年(1771年)に成立[34]した『招提寺内興起後聞記幷年寄分由緒実録』(『由緒実録』)によると、招提寺内の防備のため招かれた浪人の一人に「野尻治部」がいたという[35][36]。寺内建設に関する『由緒実録』の記述は信憑性に難があるとされるが[37]、小篠兵庫との関係などから、治部が招提に入ったのは事実であるとも考えられる[38]。その時期について、永禄2年(1559年)に安見宗房が三好長慶と対立し、河内が三好氏の支配下に置かれた後との見方がある[15]。
『由緒実録』では、この後、招提寺内が無難に年月を経る中で死去した内の一人として治部の名が挙げられている[39][注釈 4]。
脚注
注釈
出典
- ^ 小谷 2003, pp. 262–263.
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川書店、1983年、1115–1116頁。全国書誌番号:83052043。
- ^ a b c 小谷 2015, p. 320.
- ^ a b c 小谷 2003, p. 263.
- ^ 東京帝国大学文科大学史料編纂掛 編『大日本古文書 家わけ第六 観心寺文書』東京帝国大学、1917年、190–191頁。全国書誌番号: 73018524 。
- ^ 弓倉 2006, p. 248; 小谷 2015, 史料22.
- ^ a b 山科言継『言継卿記 第二』国書刊行会、1914年、68頁。全国書誌番号: 66010043 。
- ^ 弓倉 2006, pp. 242, 248.
- ^ 小谷 2015, 史料22.
- ^ 馬部 2019, pp. 510, 550.
- ^ 馬部 2019, p. 509.
- ^ 馬部 2019, pp. 530–531.
- ^ 小谷 2003, pp. 264–265; 馬部 2019, pp. 524–525.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1982, pp. 1452–1454.
- ^ a b 小谷 2003, p. 265.
- ^ 馬部 2019, p. 524.
- ^ a b 鍛代敏雄「戦国期の境内都市「八幡」の構造」『戦国期の石清水と本願寺―都市と交通の視座―』法藏館、2008年、26–30頁。 ISBN 978-4-8318-7560-0。初出:「戦国・織豊期の石清水八幡宮寺と境内都市」『国史学』第183号、2004年。
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1982, p. 1125.
- ^ 弓倉 2006, p. 248; 馬部 2019, p. 527.
- ^ 小谷 2003, pp. 264–265; 馬部 2019, p. 526.
- ^ 馬部 2019, p. 527.
- ^ 馬部 2019, pp. 524–527.
- ^ 馬部 2019, pp. 524–527, 532.
- ^ 小谷 2015, pp. 319–320.
- ^ 中井均 著「私部城と近畿の戦国期城館」、交野市教育委員会 編『私部城跡発掘調査報告』交野市教育委員会、2015年、302頁。
- ^ 馬部 2019, pp. 629–631.
- ^ 小谷 2015, p. 320, 史料15.
- ^ 小谷 2015, p. 320, 史料21.
- ^ 小谷 2015, p. 320, 史料22.
- ^ a b c d e 小谷 2015, p. 321.
- ^ 小谷 2003, p. 82.
- ^ 小谷 2015, p. 321, 史料29.
- ^ 小谷 2015, 史料29.
- ^ 馬部 2019, p. 510.
- ^ 枚方市史編纂委員会 1968, pp. 319–320; 小谷 2003, p. 262.
- ^ 枚方市史編纂委員会 編『枚方市史 第二巻』枚方市、1972年、539–540頁。全国書誌番号: 73000913。
- ^ 小谷 2003, pp. 260–261.
- ^ 馬部 2019, p. 532.
- ^ a b 枚方市史編纂委員会 1968, p. 338.
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 28 京都府 上巻』角川書店、1982年。全国書誌番号: 82036781。
- 小谷利明『畿内戦国期守護と地域社会』清文堂出版、2003年。 ISBN 4-7924-0534-3。
- 小谷利明 著「文献史料からみた私部城」、交野市教育委員会 編『私部城跡発掘調査報告』交野市教育委員会、2015年。doi:10.24484/sitereports.17362。
- 馬部隆弘『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に―』勉誠出版、2019年。 ISBN 978-4-585-22231-6。
- 枚方市史編纂委員会 編『枚方市史 第六巻』枚方市、1968年。全国書誌番号: 68010782。
- 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。 ISBN 4-7924-0616-1。
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