酒匂川補修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 05:38 UTC 版)
相模国の酒匂川は、宝永4年(1707年)の富士山噴火(宝永大噴火)の降灰の影響で氾濫を繰り返していた。 かつて休愚は、著書『民間省要』で、「噴火後の被災地復興を命じられた大名は、領民から徴収した大金を投じたがその効果は無く、その金はただ商人の手元にわたっただけで、慈愛の心が民衆へ届かないことが口惜しい」と述べていた。享保8年に酒匂川を巡察した後、同10年(1725年)に酒匂川の浚渫・補修を承る。翌11年(1726年)に酒匂川西岸73カ村は小田原藩領から幕府領となり、復旧に取りかかった休愚は自ら創案した手法で堤防の改修を行った。丈夫な木製の枠に丸石を詰めた弁慶枠や、丸く細長く粗く編んだ竹籠の中に栗石や砕石などを詰めた蛇籠を作って、これを川の流れに沿って並べることで従来のものよりも強固な堤を築いたのである。後に蓑正高も普請事業に加わり、享保12年(1727年)5月に工事は終了。 酒匂川の補修が成功した後、休愚は褒章として受け取った金100両を用いて、同地に夏王朝の始祖・禹王の碑を建て、普請の顛末を記した。この補修により酒匂川下流の村落は、水害に見舞われることは無くなったという。堤は「丘隅堤」または「文命堤(ぶんめいづつみ)」と呼ばれ、現代も同地に残されている。
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