鄧展
(?~?) | ||
南陽郡の人。 建安年間(一九六~二二〇)に奮威将軍となり、高楽郷侯に封ぜられた《武帝紀集解》。建安十八年(二一三)五月、献帝が魏公に封ぜんとの詔勅を下したのを、曹操が再三にわたって固辞するので、鄧展は諸将・群臣と連名して拝受するよう曹操に勧めている《武帝紀》。 鄧展は戈・殳・戟・酋矛・夷矛の五種類の武器の扱いに通暁していると評判で、また徒手空拳のまま白兵戦に参加できるのだと噂されていた。曹丕もまた撃剣の使い手で、あるとき劉勲・鄧展らと一緒に酒を呑み、鄧展とのあいだで撃剣の議論になった。しばらくして曹丕が「将軍のおっしゃる法は間違っております。余(わたし)はかつてそれを嗜んだことがあり、やはり巧者になりました」と言うので、鄧展は試合することを求めた《文帝紀》。 そのとき酒宴は酣であったが、ちょうど竿蔗(さとうきび)を酒の肴にしていたのでそれを武器代わりにした。殿を下りて数合ほど打ち合い、曹丕が鄧展の臂に三度当てた。左右の者は大笑いした。鄧展は納得がいかず、もう一度手合わせしたいと願った。曹丕は「余の法は厳しく攻め込むものなので面を撃つのが難しい。全部臂に当てたのはそのせいです」と言った。鄧展はなおも一戦交えたいと願った《文帝紀》。 鄧展は突きを繰り出して勝負を決めるつもりであったが、曹丕はその手をあらかじめ読んでおり、わざと深く踏み込んだ。鄧展は予定通り、間髪を入れず前進したが、曹丕は身を引いて彼の額を真ん中から叩き切った。座中の面々は驚いて曹丕を眺めた。曹丕は座席に戻ると「余は鄧将軍が過去の技術を棄て、改めて奥義を学ばれるよう期待しておりますよ」と言って、笑った《文帝紀》。 鄧展は学問にも通じていたようで、彼が『漢書』に施した注釈は、しばしば顔師古からも参照されている《漢書注》。 【参照】顔師古 / 曹操 / 曹丕 / 劉協(献帝) / 劉勲 / 魏 / 高楽郷 / 南陽郡 / 郷侯 / 公 / 奮威将軍 / 漢書 / 撃剣 |
鄧展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 01:46 UTC 版)
鄧 展(とう てん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏に仕えた軍人。荊州南陽郡の人。『三國志』「魏書載公令」では劉展とする。
経歴
建安18年(213年)の5月、魏公就任をたびたび辞退する曹操に対して、拝命を勧める群臣の中に鄧展も名を連ねている[1][2]。
鄧展は矛や戟など五種[3]の武器に精通し、無手であっても白刃の中で戦えるといわれた。
あるとき曹丕、劉勲らと酒の席で剣術の議論をしている際に、曹丕と意見が対立して試合で武法の是非を証明することとなった。みな酒がかなりまわり、酔い覚ましに干蔗(砂糖キビ)を食べていたため、これを棒として対戦した。さっそく鄧展らは殿を降りて数合交えたところ、曹丕から三度も肘に当てられたため左右の者に笑われ、再戦を請うた。曹丕は「余の武法は素早いゆえに面に当てづらく、ゆえに肘のみに当たったのだ」と語り、再度試合を行った。鄧展は突きを当てようと進み出たが、曹丕は予期しており、躱されて額に当てられた。みな座に戻ると曹丕は「昔、陽慶(名医)は淳于意に古い医の手法を棄てさせ、改めて秘術を授けたとか。今、余もまた鄧将軍が古い技を棄てられ、良い技を会得することを願う」と語った[4]。
鄧展は武術だけでなく、学者としての一面もあった。『漢書』は難読語が少なくなく、成立してから多くの者が注釈を残していったが、鄧展もその一人で、顔師古による『漢書』注釈の撰にも採用され、現在でも「鄧展曰く」の文章が確認できる[5]。
また(後漢の鄧展と同一人物かは不明だが)『孝子傳』に、鄧展は蚊の多い季節に窓の下で眠る父母のため、床に伏せて蚊を自分に吸わせた、という逸話が残る。
脚注
- >> 「鄧展」を含む用語の索引
- 鄧展のページへのリンク