部屋の中ホースが通り天高し
作 者 |
|
季 語 |
|
季 節 |
秋 |
出 典 |
|
前 書 |
|
評 言 |
この句の即物性には驚く。このホース、景としてはかつての庶民の日常生活で見られた。たとえば小さな庭で何か洗い物をするときに、洗面所の水栓から部屋を横切って、庭にホースで水を引く、など。 しかし部屋の中をホースが通ることと、季語「天高し」の配合は、わが日本の自然観(美意識)からはすこぶる異質、一句のなかでねじれが生じていると思われる。ねじれ、つまり季語「天高し」が裏返しにされているのだ。 山口誓子の昭和二年の作、「七月の青嶺まぢかく熔鉱炉」と比較すると掲句の特徴は鮮明になる。重工業をも素材にした誓子の句では「七月の青嶺」と「熔鉱炉」との対比の美学があり、韻もまた句の美学に向けて働いている。当然ではあるが言葉は十分に吟味され、選別されているのだ。 逆の意味で滝沢無人もまた、言葉を吟味、選別している。即物性という美学ならぬ「反美学」の意識でもって。 しかし、句は無造作にあるのではない。「反美学」でありながらも、定型のなかで一句成立しているのである。 この即物性の系譜は化政度江戸俳諧の遊俳、夏目成美に求めることができるかもしれない。 かげろふやいせの御祓捨てある 成美 この句もまた即物的である。成美は一茶のパトロン的存在であったが、この即物性のみなもとは、成美の商人としての合理性に求めることができるようだ。 夏目成実と滝沢無人に共通することは、言葉に対するロマンチシズムを捨てた上での「洗練ぶり」であろう。これがあって初めて即物的な句をものにすることが出来ると思われるのである。 それにしても作者の句は奇妙である。「無人」という俳名は仏教的世界観の現れではなく、太平洋戦争を生きた青年の思い「死ぬことになっている」の現れということである。作者の方法は、戦前の私小説的・心境小説的方法論を捨てた、いわゆる第二次戦後派作家と一脈通じるところがあると私は睨んでいるが、如何? |
評 者 |
|
備 考 |
- 部屋の中ホースが通り天高しのページへのリンク