遠山-船越論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 20:57 UTC 版)
1948年(昭和23年)頃、糸洲の高弟で三羽烏の一人と言われる遠山寛賢と船越義珍の間で「空手の本家」を巡って論争が起きた。 糸洲の直系弟子を自認する遠山は、船越は糸洲門下では傍系に過ぎず(船越は安里安恒の直弟子)、糸洲の直系に連らない者は沖縄空手の正統とはいえない、と主張した。また、遠山が沖縄師範学校の本科卒業生であるのに対して、船越は沖縄県師範学校の速成科(一年課程)出身であったことも、この論争の争点の一つであった。遠山の主張では、師範学校本科で糸洲から学んだ者のみが糸洲の後継者であると主張した。 しかし、糸洲が師範学校で教え始めたのは、1905年(明治38年)からであり、たとえ船越が本科に入学していたにしろ、(戸籍上は)1870年(明治3年)生まれの船越が糸洲に師事する機会はありえなかった。いずれにしろ、遠山-船越論争を通じて、糸洲門下の弟子の中に、直系と傍系の差別意識があったことは確かのようである。 なお、遠山は1931年(昭和6年)に修道舘を東京浅草(後に目黒へ移転)に、船越は1939年(昭和14年)に松濤館を東京雑司ヶ谷に開設。両者とも糸洲の教えに倣い、無流派主義としていた。
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