逃走と伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 10:25 UTC 版)
「かんじきの戦い (1758年)」の記事における「逃走と伝説」の解説
ロジャーズと、多くの死者を出した彼の部隊は、3月15日にエドワード砦に戻った。当初、ロジャーズ自身はフランスに、殺されたと思われたが、実際には生き延びていたと報告された。このフランスのこの報告は、ロジャーズが戦闘中に兵を見捨て、委任状が入った自らの軍服を捨てたことによるものだった 。この逸話はその後、ロジャーズが逃げる際に、丘陵の斜面を400フィート(211.92メートル)も滑り落ちて、結氷したジョージ湖の表面にたどり着いたという展開となってこの地域に伝わった。何ら裏付けはないものの、彼が滑り落ちたといわれる岩壁は、ほどなく「ロジャーズの滑り」として知られるようになった。 戦死勝者と軍の人数の報告に関しては、両軍の間でかなりの違いがあり、ロジャーズの報告では、フランスとインディアンの軍は700人で、100人から200人の死傷者とある。戦闘の様子についての証言は、他の証言と比較して矛盾が多く、さまざまな評論家が疑問を呈している。カリヨン砦で捕虜になっていたヘンリー・プリングルは、拘留中の手紙の中で、2度目の待ち伏せの後はフランスに有利に展開したことを明記しており、これでプリングルは自身の汚名をすすいだ。ロジャーズはレンジャーズの再建を続け、この年7月にカリヨンの戦いに参戦した。
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