近習としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 22:38 UTC 版)
応永35年(1428年)に義持が死去し、室町殿となった弟の義教は将軍に権力を集中させようとした。このため義教側近である近習の満政の存在は大きくなった。義教の参内に随従し、将軍家の連歌会に頻繁に参加した。連歌会への参加は、満政がひとかどの文人であったこともあるが、義教が連歌会や歌会を政権運営の装置として用いていた事も指摘されている。正長2年(1429年)からは上総介を名乗っているが、上総介は満政の伯父で赤松氏惣領であった赤松義則が名乗った官途であり、この頃から義教が赤松氏の惣領に満政を任じようとしていたと言う推測も行われている。 永享2年(1430年)に近習大館満信が失脚し、満政は近習として義教と三宝院満済をはじめとする幕閣有力者との間の連絡を行う申次の任務を行った。永享3年(1431年)には播磨守に任じられ、赤松氏惣領の播磨守護満祐に対抗する形となった。伏見宮家の播磨における所領佐土余部(印南郡の一部)の代官にもなったが、伏見宮家との関係は必ずしも良好とは言えなかった。また義教は播磨の重要港兵庫港の支配を検討しており、その代官として満政を起用する計画を持っていたが、実現はされなかった。永享5年(1433年)には延暦寺衆徒による強訴が行われたが(永享の山門騒動)、この際山徒側は満政に「猛悪無道」な「奸曲」があったとして、遠流に処すよう要求している。同様に訴えられた飯尾為種や光聚院猷秀は形ばかりの流罪となったが、満政の処分は山門側との交渉によって回避された。 永享2年(1434年)に近習一色持信が死亡すると、近習の権力はほとんど満政に集中するようになった。有力守護や管領等が行っていた地方大名と将軍の取次の役割も、この頃から満政が行うようになっていた。
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