軍備と出動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 19:23 UTC 版)
初期の鎮台の兵士は、士族出身志願者からなる壮兵であったが、1873年発布の徴兵令を期に徴集兵におきかえる施策が進んだ。仙台鎮台では1874年(明治7年)に歩兵1個大隊分だけを徴募する計画を立てた、 1875年(明治8年)改訂の「六管鎮台表」によれば、第4師管には歩兵第4連隊、第5師管には歩兵第5連隊が配置されることになっていた。ほかに騎兵第2大隊、砲兵第2大隊、工兵第2小隊、輜重兵第2小隊が仙台鎮台に属した。北海道は第2軍管の範囲外だが、南端にいる函館砲隊は仙台鎮台に属した。定員は平時4340人、戦時6410人である。 以上は計画兵力であり、充足は容易ではなく、第4連隊の編成は1875年、第5連隊の編成は1878年となった。また、受け入れる陣営がないという理由で1875年(明治8年)の騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の徴兵は中止した。工兵については、1874年(明治7年)に東京鎮台で壮兵の募集をかけ、後に仙台鎮台に回すという計画であった。 鎮台の主な任務は、管内の反乱の鎮圧にあった。1877年(明治10年)に九州で西南戦争が勃発した直後には、山形県鶴ヶ岡の士族が反乱する動きがあるとして、県の要請により2個小隊を派遣した。
※この「軍備と出動」の解説は、「仙台鎮台」の解説の一部です。
「軍備と出動」を含む「仙台鎮台」の記事については、「仙台鎮台」の概要を参照ください。
- 軍備と出動のページへのリンク