軍事カリスマとしての孔明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
「三国志演義の成立史」の記事における「軍事カリスマとしての孔明」の解説
正史での陳寿の評価に反して、南北朝から隋唐にかけ、諸葛亮の軍事的才能がさらに賞賛されるようになった。北周王朝(556年 - 581年)の基礎を築いた宇文泰は、諸葛亮の軍才を敬して部下に「亮」の名を与えており、また『演義』にも登場する「八陣之法」や「木牛・流馬」などが、孔明の発明したものとして語られるようになる。唐代に至ると、名君太宗(李世民)の諫臣として『貞観政要』でも知られる魏徴すらも諸葛亮に劣ると評され、その軍才はいにしえの孫子・韓信や唐建国の功臣李靖・李勣と並んで名将ベスト10に名を連ねるまでとなった。関羽と同様、南宋においては「威烈武霊仁済王」に封じられ、国家の守護神の一人に数えられている。 また朝廷とは別に、民間においても同時に孔明の軍略を讃え、神秘化する傾向が強まる。前述の通り、唐代に寺院で語られた俗講で三国説話が語られたが、その中では蜀の軍事行動がすべて諸葛亮に結びつけられており、軍師としてだけでなく、その知謀を際立たせるために能力の神秘化までが進んでいる。
※この「軍事カリスマとしての孔明」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「軍事カリスマとしての孔明」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。
- 軍事カリスマとしての孔明のページへのリンク