越後屋の南京糖とは? わかりやすく解説

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越後屋の南京糖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/29 14:11 UTC 版)

南京糖」の記事における「越後屋の南京糖」の解説

越後屋は、宮城郡手樽出身初代越後屋喜三郎塩竈来て創業した店で、当主代々喜三郎名乗った塩竈興行に来た南京曲芸師南京糖製法教えられたという話もあるが、実際のところは不明である。ともかく、江戸時代南京糖塩竈名物として、同じ越後屋浅みどり昆布、唐飴とともに知られていた。 寛政4年1792年)に書かれ塩竈地誌『奥塩地名集』によれば延享2年1745年)に江戸のぼった越後屋喜三郎は、袖ヶ崎屋敷隠居していた伊達吉村浅みどり昆布と「南京糖飴」などを献上した。すると、吉村南京糖作り方江戸菓子権八伝授し代わりに求肥糖の作り方伝授するよう指示した。こうして、越後屋は「求肥唐飴」を作るようになった。この文面では南京糖は「南京糖飴」とも呼ばれる飴菓子思われる。ただ、『塩竈市史』が採録した『奥塩地名集』ではこの箇所が「南京糖唐飴等」となっており、これを信ずるなら南京糖を飴とする根拠にはならない明治時代越後屋は、「南京糖と書かれた大きな看板掲げて営業した。当時菓子事情を知る駄菓子研究家石橋幸作によると、その頃南京糖には型、輪型、撚り型の三種があった。いずれも黒砂糖米粉練り合わせた菓子で、型には和三盆をかけ、輪型には砂糖をかけた。型の南京糖は、の歯の造形欠き、むしろ細長い半月形や、板かまぼこ断面の形というべきものである。輪型は「輪っこ」とも呼ばれた越後屋大正の末までに廃業し浅みどり昆布南京糖など越後屋名物作られなくなった

※この「越後屋の南京糖」の解説は、「南京糖」の解説の一部です。
「越後屋の南京糖」を含む「南京糖」の記事については、「南京糖」の概要を参照ください。

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