警護任務の実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:37 UTC 版)
FBKとRSDはヒトラーの移動や行事の際の警備、保護のため行動していたが、それぞれ別のグループで活動し別個の車両を使用していた。RSD長官のラッテンフーバーが全体の指揮を執り、FBKの指揮は彼の副官が務めた。FBK隊員でヒトラーの専属運転手でもあるエーリヒ・ケンプカは通常、ベルリンやミュンヘンなどに駐留していた6~8台の車群の中からヒトラーの黒いメルセデス・ベンツの1台を運転していた。要人と随行していない限りヒトラーはケンプカの隣の前座席に座り後部座席に副官が座っていた。ヒトラーの車の後には左右に2台の後続車が続き、1台にはFBKの隊員が、もう1台にはRSDの隊員が乗車していた。1938年7月、ケンプカの指示により完全に装甲化されたメルセデスが製造され、ヒトラーの50歳の誕生日である1939年4月20日に間に合うように納車された。この車は18mmの鋼板と厚さ40mmの防弾ガラスを備えていた。 1938年3月より、FBKとRSDの隊員は共にSSの標準的なグレーの制服を着用するようになった。この2つの部隊は親衛隊の管理下にあり、両部隊とも親衛隊員で構成されていた。ヒトラーの警護には非常に長い月日を要し、特にFBKの隊員は休むことなく24時間勤務で行動していた。しかし、刑事の専門知識を受けた刑事警察出身者を多く含むRSDの隊員は、自分たちがより専門集団であると自負しておりFBKの隊員を見下していた。FBKはヒトラーのすべての旅に同行し、第二次世界大戦中は占領下のヨーロッパ各地にある『総統大本営(Führerhauptquartier, FHQ)』にも常に駐留していた。ヒトラーが滞在していた場所にはFBKとRSDのメンバーが必ず出席し、FBKは厳重な警備を担い首相官邸などのヒトラーの執務室に通じる廊下の警備員として配置されていた。RSDはそれ以外の敷地内での警備を担当していた。 1943年1月15日時点でFBKは31人のSS将校からなる112人に拡大していた。隊員の一部は当時使用されていなかったヒトラーの山荘などの警備任務についた。
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