語彙統計学から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 05:49 UTC 版)
「インド・ヨーロッパ祖族」の記事における「語彙統計学から」の解説
21世紀に入り語彙統計学的研究から、祖語からまずアナトリア語派が分かれ始めたのが紀元前7千年紀(起源前7000-6001年の期間)であるとする考えが提出され、レンフルーの考えが再び注目されたことがあった。この説ではインド・イラン、スラヴ、ゲルマンなど多くの語派への分化が徐々に始まったのは紀元前4千年紀とされる。 考古学的所見と合わせると、 黒海北岸からコーカサス山脈北麓までの一帯の「原郷」(本格的なクルガン墳墓文化であるヤムナ文化に至ることになる非常に古い時代の基層文化、おそらくクヴァリンスク文化ないしそれに至る前時代の基層文化)から一部が紀元前7千年紀にアナトリアへと移住(コーカサスの北麓から南麓への移住)しその文化が独自に発展し、原初的なクルガン墳墓を築くマイコープ文化を形成していくかたわら、黒海北岸からコーカサス北麓にかけての「原郷」に残っていた人々は本格的で大規模なクルガンを築く文化であるヤムナ文化を形成してから多数の集団に分化・拡散していった場合、 アナトリアないしコーカサス山脈(のアララト平原等)が「原郷」でそこから一部が黒海北岸からコーカサス山脈までの一帯に移住(コーカサスの南麓から北麓への移住)した後本格的なクルガン墳墓文化(ヤムナ文化)の基層となったクヴァリンスク文化からスレドニ・ストク文化への発展をし、いっぽうでアナトリアの「原郷」集団はのちに原初的なクルガン墳墓を築くにとどまるマイコープ文化に発展した場合、 という互いに全く異なる2つのシナリオが想定される(ただし移住に際してコーカサス山脈の峠や現在のソチのあたりの黒海沿岸地方を直接経由したのか、それとも黒海西岸を迂回しボスポラス海峡を渡るルートを採ったのかは不明)。原郷をアナトリアとするレンフルーは2を想定しているのであるが、上記のクロ・アラクセス文化の存在とその活発な域外交流の事実が明らかになったことによりコーカサス山脈の北と南の間に常にある程度の人や文物の往来があったことは十分に考えられ、1でもクルガン仮説とは両立するため、黒海北岸・コーカサス北麓原郷説はいまでも主流となっている。
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