誌名決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:53 UTC 版)
同年1924年(大正13年)5月初旬、同人6名は本郷4丁目の食料品店「青木堂」の2階にある喫茶店で第1回同人会を開いた。梶井基次郎は大宅壮一の第七次『新思潮』を強く意識し、一日でも早い創刊を主張したが、夏休みに帰省する者もいることから、創刊を秋にすることとした。6人は具体的な日取りや、資金は1人毎月3円ずつ積み立てて、広告も取ることなどを決め、本部の連絡場所を外村茂の家とした。 10月初め、中谷孝雄は平林英子との同棲を再開して、本郷菊坂下の下宿で世帯を持った。その下宿に集まった同人6人は、なかなか決まらなかった雑誌の正式名称を何にするかを改めて相談した。「薊」(あざみ)という名がいいと梶井基次郎は主張したが、水を揚げない花だと稲森宗太郎が助言して廃案となった。 英子が窓辺で中谷に、武者小路実篤の詩に「さわぐものはさわげ、俺は青空」というのがあると囁いた。英子は武者小路実篤の主催する「新しき村」に入村していた。その英子のヒントから、中谷は秋晴の美しい空を見上げながら「青空はいいな」と叫び、即座に梶井が賛同した後、他の4人も同意し「青空」に決定した。誌名が無事に決まり、6人は創刊号に載せる作品原稿の締め切りを10月末に決めた。
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