誌法師墓誌銘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:51 UTC 版)
南朝宋の泰始2年(466年)、都の建康郊外の鍾山に出没し、また都にも現れるようになったが、当時50・60歳くらいの年配に見え、特に神異的な行跡は見られなかった。 南朝斉の成立頃より神異の行いが見られ始めた。長髪・裸足の姿で徘徊し、手にした錫杖には鏡や鋏などをぶら下げるようになった。また酒肴を口にしたり、あるいは数日間何も食べないこともあるといったあり様であった。さらに予言を行い、人の心中を言い当てた。一時に数所に現れるという分身のさまも目撃された。 南朝梁の天監13年(514年)、都の華林園内の仏堂で没した。亡くなる前には、金剛像を屋外に出させて「菩薩は当に去るべし」と述べたという。武帝は宝誌のために鍾山に開善寺を建立し、その菩提所として手厚く供養した。 以上が、武帝が陸倕に命じて撰させた「誌法師墓誌銘」(『芸文類聚』巻77)の内容である。
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