試製自働短銃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:29 UTC 版)
大正9年(1920年)頃、弾薬選定の予備研究が行われ、6.5mm弾(.25ACP弾)・7mm南部弾・7.7mm弾(.32ACP弾)が試され、いずれも不満足だったので、最終的に十四年式拳銃と同じ8mm南部弾(8×22mm南部弾)を使用することに決定した(※弾薬の選定がいつ頃行われたのかは正確には不明。ただ、使用弾薬を決めなければ、銃器の設計に取り掛かれないので、1920年代の前半に行われたと考えられる)。 大正12年(1923年)に、陸軍造兵廠火工廠東京工廠にて試製自働短銃の設計が開始された。 昭和2年(1927年)に、「試製自働短銃 1927年型」(Tokyo Arsenal Model 1927)が完成した。全長690mm、重量3.2kg、8×22mm南部弾、50発ドラムマガジン(メタルテープ給弾)または30発ボックスマガジン(スプリング給弾)、ブローバック方式で、エアバッファー(空気圧式ボルト緩衝装置)の欠陥から発射速度が1200発/分と高過ぎる(後に、300~600発/分に改良された)、命中精度が悪い、構造が複雑で脆弱、などの問題点があった。 翌昭和3年(1928年)には、全く別設計の「試製自働短銃 1928年型」(Tokyo Arsenal Model 1928)が完成している。全長800mm、重量3.3kg、8×22mm南部弾、18発マガジン、ブローバック方式。セレクターにより単発と連発の切り替え可。 昭和5年(1930年)に、試製自働短銃 1927年型と1928年型は、シグ-ベルグマン(SIG-Bergmann、スイスのシグ社によるMP18のライセンスコピー品)、ラハティ(Lahti Model 1922)、トンプソン(Thompson)、など、他のいくつかの短機関銃との比較試験を受け、結果、両者とも不採用となった。 その後、翌昭和6年(1931年)の満州事変の勃発により、予算上の制約と生産優先順位の点から開発は停滞した。
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