記録教育映画製作協議会から科学映画へ
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「吉見泰」の記事における「記録教育映画製作協議会から科学映画へ」の解説
フリーとなり、日映作家集団、記録教育映画製作協議会の結成に関わる。 1952年、記録教育映画製作協議会の第1作『1952年メーデー』の製作・監督を担当。 1954年、荒井英郎・杉山正美監督、記録教育映画製作協議会製作の『月の輪古墳』の脚本を担当。第1回教育映画祭(主催=日本映画教育協会、後援=文部省・外務省・通産省・厚生省・農林省・朝日新聞社・日本放送協会・東京都教育委員会)社会教育部門最高賞受賞。同年、東京シネマで岡田桑三、小林米作らとともに、科学映画の製作に携わる。 1955年、「よりよい教育映画を生み出すために」を『視聴覚教育』誌5月号(日本視聴覚教育協会)に掲載。
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