補佐としての活躍・事実上の太守として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 14:46 UTC 版)
「ムルシド・クリー・ハーン」の記事における「補佐としての活躍・事実上の太守として」の解説
1690年代、ベンガル地方で深刻な反乱が起きると、アウラングゼーブは孫のアズィーム・ウッシャーンを新たなベンガル太守とし、ムルシド・クリー・ハーンを補佐役としてディーワーン(州財務長官)に任命した。 その後、1698年にアズィーム・ウッシャーンは反乱を鎮圧すると、アウラングゼーブの息子ら同様、いずれ争われるだろう帝位を狙うようになり、彼はベンガルにおいてさまざま手段で不正蓄財を企てるようになった。そのため、清廉潔白なムルシド・クリー・ハーンは太守の不正蓄財をやめさせるべく苦慮することとなり、1700年頃からベンガルにおいて改革を行った。 ムルシド・クリー・ハーンは歳入単位を合理化し、古いザミーンダールを新興の自作農に変えたり、期限内に徴税、納税できないザミーンダールを厳罰に処し、逆に義務を果たすザミーンダールを優遇したりするなどした。 また、ベンガルの歳入余剰金が帝国のほかの地域に転用されているのを見て、転用を防ぐ措置を取った。結果的にこれは成功し、ベンガルの経済は国内の交易と活発な海外交易に支えられて急速に発展したが、これはベンガルの代理業者、ヨーロッパ貿易商人、アルメニア仲買人の連携があったからこそだった。 そのうち、ムルシド・クリー・ハーンのほうが政治的手腕に優れていることが分かり、彼はアウラングゼーブの了承を得てベンガルを取り仕切るようになった。1704年にはアウラングゼーブの許可のもと、ベンガルの行政府をダッカからマフスーサーバードへと遷都している。 1707年、皇帝アウラングゼーブが死にその息子バハードゥル・シャー1世が帝位を継承すると、1708年にムルシド・クリー・ハーンはデカンのディーワーンに任命され、任地に赴いた。だが、1711年にベンガルのディーワーンが暗殺され、彼が再任されることとなった。
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