被害の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:53 UTC 版)
「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事における「被害の研究」の解説
飢饉地域の認定は政治的な理由に左右された。また、ヴォロネジ県のように飢饉地帯に認定されていない地域でも餓死を含む飢饉は起きており、飢饉地帯と罹災人数を正確に確認できる資料は見つかっていない。しかし、さまざまな資料から被害が推計されている。 1921年の冬から1922年夏にかけての飢饉最大期には、ヴォルガ中・下流域・ウクライナ南部、ウラル山麓、北カフカースといったヨーロッパロシアの東・南東・南の地域の330万平方キロメートルから、シベリアや中央アジアにも広がった。全国74県のうち、20から34県に及んだ。飢餓数の総数は2200万人から3350万人のあいだで推計されたが、20世紀ロシア人口史研究家ジロムスカヤらの研究によると、1922年末に成立するソ連の総人口1/4になる3500万人が罹災者だとする。死者の合計は125万人から1000万人までと開きが多い。
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