袖志の伝承
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袖志では、『九世戸縁起』に描かれた文殊菩薩と荒神(龍)のエピソードのその後を、穴文珠の創建とあわせて次のように伝えている。 昔、袖志の海では悪竜が暴れて人々を苦しめていたが、僧侶が経ヶ岬で幾度も文珠真言を唱えるうちに説教され、いずこかへ去った。僧侶はその後、悪竜がよく入っていた岩窟に入り、なにかを彫り始めた。人々が悪竜から村を救った僧侶に礼を述べ、何を彫るのかと尋ねたところ、僧侶は「文珠真言を唱えたら竜が理解してくれたので、文殊菩薩を彫る」と答え、幾日も昼夜をとわずに彫り続けた。袖志の人々は1日3回交代で岩窟の入口まで僧侶のための食事を運びながら、悪竜が去って平和が戻った村で田畑の世話や漁に明け暮れていた。ある晴れた日、いつものように食事を運ぶと、石を彫る音が消えている。もしや僧侶が倒れたのではと案じた村人が洞窟の中に入ってみると、僧侶が彫りあげたぴかぴかと光輝く石像が祀られていた。獅子の上に文殊菩薩が乗った姿であった。その夜から翌朝にかけて、村の人々は皆で岩窟に集まって祈りを捧げ、その後も毎日だれかが参詣したという。 その後、何十年かの月日が流れたある日、海心という名の僧侶が訪れ、村人と同じように岩窟に参詣して祈りを捧げた。その際、海心和尚は石仏が歳月で少し風化していることに気づき、村人に仏像をこのままにせず、どこかに寺を建てて祀ることを勧めた。悪竜から村を守った僧侶が経を唱えたその場で作ったものだから、動かすのはよくないと考える人もいたが、説得を受けて岩窟の上にお堂を建立した。1609年(慶長14年)のことであるという。大きな岩窟の上にあるので穴文殊堂と呼ばれるようになったが、ほんとうの名は「清涼山九品寺」という。だが、それを知る者は少ないという。
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