袖志の漁業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 16:53 UTC 版)
袖志の集落の始まりは定かではなく、漁業の起源も明らかではないが、遅くとも応永年間(1394年~1427年)には20数戸が居住して農業を営んだと記録されている。採藻業の始まりは天正年間(1573年~1591年)であると伝わり、前述の通り元禄年間(1688年~1703年)に嘉兵衛が主導して海女を一団として組織して漁をするようになると、その収穫は年収としても専業で成り立つほどに多く、他の村民も皆これに倣い、袖志の女性はほとんどすべての者が海女となり活動した。 享保年間(1716年~1735年)には近隣の村に習って延縄業をはじめたが、技術不足に加え、海女の採藻業に障害となることがわかって中止された。寛保年間(1741~1744年)には漁民共同で起中網を設置したが、好漁場とはならず、波風の激しさから管理作業もままならず、これも数年で中止されている。 以後、しばらくは採藻業のみが営われたが、1862年(文久2年)に間人村から漁夫を雇って、漁具を新調し、蝶手繰網を使用したところ、好漁であったため、3艘の漁船が20年程活動した。網漁はその後一時期絶えたが、1897年(明治30年)頃から再び始められ、明治時代から大正時代にかけては45艘程が操業し、漁業が発展した。この頃は魚種も漁獲高も多く、漁民は漁業専業で潤ったという。 しかし、昭和時代に入って新たな漁法が導入されるにつれ、乱獲による漁獲高の激減で漁業で生活を維持することが困難となった。その後の袖志の漁業は、とる漁業からつくる漁業へとシフトし、アワビやサザエ、ワカメの養殖などの浅海漁業がおこなわれている。
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