行政官としての活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/12 03:59 UTC 版)
翌年10月、広西省榷運局局長に異動する。さらに1926年(民国15年)1月に、瓊崖各属行政専員として海南島の行政に携わった。同年11月、国民政府の監察院監察委員に異動する。翌年6月に広東省政府委員兼土地庁庁長に就任した。このとき、広東省党部常務委員兼宣伝部長にも兼任している。この間の張難先の治績は良好で、国民政府内でも高く評価されている。 同年12月、湖北省政府主席張知本の下で財政庁長に任命される。張難先は省内財政改革に尽力した。しかし、1929年(民国18年)5月、蒋介石と反蒋派の抗争が激化したことに嫌気が差し、張知本と張難先は揃って辞任してしまった。 1930年(民国19年)12月、張静江の後任として張難先は浙江省政府主席に任命される。翌年9月の満州事変勃発を受けて、張難先は省内で抗日の戦時体制を整えようとした。しかし、これを蒋介石に咎められ、12月に罷免されてしまった。 1932年(民国21年)、豫鄂皖剿匪総司令部党政委員会兼監察処主任に任じられ、中国共産党討伐に従事する。しかし張難先は、掃討や財務運用の方針をめぐって総司令部秘書長楊永泰と対立するようになる。さらに蒋介石の不興も買ったため、張は辞任して故郷に帰った。
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